以出齋 | Itshoh Tse

禮以行之 孫以出之 信以成之

【韻鏡考】第一章 韻鏡とは如何なるものかるか

【本文】

第一章 韻鏡とは如何なるものかるか

抑も支那にては、古今に涉りて讀書音と方音とありて、讀書音は、隋唐時代には、南北大體同じかりしこと、玉篇と廣韻との反切に大差なきにて知るべきなり。而も口舌上、反切の發音は異なる所ありしかば、隋、天下を一統し、南北の人士に對し、同一の科舉を行ふに方り、先づ困れるは詩賦押韻の一致せざるに在りしが如し。因て官撰もて、他韻に紛れざる範圍に於いて、韻の異なる二百六の文字を選び、之を韻頭として、あたかも我が國のイロハ別にて、詞を集むると等しく、詩賦の韻脚に適せる文字を集めて、之に分屬せしめ、而して其の字義と口發の音に一致せる反切を注したる一韻書3/4を作り、以て科場に上らんとするものに與へたるが、是れ隋の切韻、唐の唐韻と爲す。又其の韻書の、南北一致と押韻上の便宜とを考へて、右の人工的に新たに定めたる韻脚の某韻には、讀書音即ち口舌上如何なる韻の文字の、是に屬せるかを一目にして知らる可く作れるものは、隋唐の切韻圖にして、是やがれ、宋代の七音略、韻鏡等の祖圖原型なりとす。そは是等の音圖は、皆二百六韻頭を、切韻、唐韻の次第に從ひて平上去入、一聲各〃四等位に分たれたる其の等位の左端に記されたるが、或は一等に二韻頭、二等若くは三等に亘りて一韻頭の當れるあり。又毎等位一列に舉げられたる文字を唐韻に就きて其の反切を檢するときは、齒音より外は、概ね其の韻を示す下字は同等の文字なり。大略此の觀察のみにて、是等の音圖と隋唐の韻書との關聯は顯著なるを以てなり。(委くは再び第十一章に至りて説くべし。)

切韻圖即ち韻鏡等の音圖の成れる所以、幷びに構成の大要は右の如くなるが、之を會得せる上にて少しく注意せば、更に解し難き所を見ざるなり。而も音圖上の音韻は、皆南宋以上のものなるがゆゑに、後代漸次轉〔傳〕訛せる音は勿論、當時に於いて我が國に傳來せるものすら、類近の音は、一樣になれるが爲めに、轉を異にしながら同音になれるもの甚多く、又等位異れば必ず韻を異にすべきに、一二の等位に等韻の二字あり、三四の等位にも亦同韻の二字あるが如きなど、一見其の然る所以を知らざる者、一にして足らず、然れども原と韻鏡の類は、隋唐時代に於けるイロハ、否五十4/5【支那の音圖は我が五十音と同様ものなり】音と同じきものと見ば、其の中に同音同韻の文字の、圖を異にし、等位を殊にし、又は此の音と彼の音と區別すること能はざるものあるは、猶我が國古代の常語の音を集めて作れる五十音に、アヤ二行に二つのイと、二つのエとあり、アワ二行に二つのウのあるに同じ類と見ば更に怪しむべきに非ずして、これらは、皆當時に於いて各〃特異の呼法ありて、其の位置を占めたるものなり。されば當時に在りては、音圖中一定の位置に文字あらば、其の位置に適當なる一音以外、四十三轉中何處にも同音の文字は絶えて有るべからず。是にて音圖成立の大體は知られたれども、尚音圖上の諸名目中不明なるものに對して聊か説明と試んとす。そは内外轉、等位、十六攝目等【漢字の音尾】の分別意義等は、豫め會得する必要もあればなり。乃ち内外の別は、字音の音尾を除外せる體部、即ちアウ〔、〕エン、オウ、イク等の音尾ウ、ン、クを除けば、ア、エ、オ、イとなる。そを發する際の口形は、アとエは廣く張り、ウとイとオは狹く撮むるによる分別。四等の別は、同口處に發する同音の文字の中には、その文字により、口處口形の廣狹に【音圖の十六攝目】小差あるによる分別。十六攝目は、内外の別の、字音の全體を體韻の張撮によりて、兩分せるものなるを、其の兩分せる體韻に種々の音尾を附して韻形を分つときは、恰も十六種となるを、その一種毎に、各〃これが代表的文字を充てたるが、即ち十六攝目と爲す。而して其の目を毎轉に配記するときは、之によりて、直ちに其の轉の體韻、音尾を合せたる韻形は勿論、體韻や音尾の如何なる種類なるかを知るを得て、音圖の5/6操展上、非常の便を爲すものとなるなり。内外轉、等位、十六攝目を此の如きものと見るときは、いづれも韻鏡中主要のものにして、之を除外しては、如何に巧妙なる説明を以てすとも、到底其の甲斐あるまじきなり。さるを、從來古今東西の諸家に在りて、【從來韻鏡等の音圖を難解と爲せる所以】是等重要なる諸項を以て、或は難解となし、或は不明となし、或は無用の長物となし、來れるを思へば、終生此の學に從事して、遂ひに世人に顧みられざりしも、亦怪しむに足らざるなり。

【音圖類も解し易きものとなるべし】韻鏡上、右の諸項にして、其の意義も其の理由も、將其の用法も、既に明白となれるときは、一朝にして、平易簡明、何等疑惑の點なく、恰も我が國の五十音と等しく、唯之に比すれば、聊か音韻の性質を異にして、其の種類の多数なるの差あるのみにして、何人にも容易に解せらるべきものとなるべし。かく言はゞ讀者は、現世の風氣として、些か一隅に得たるところあるときは、忽ち之を敷衍し誇張して、古哲先輩の説をも誣蔑排抵して顧みざる類と同一視せられ、一讀の榮をも得ざらんことを恐る。是に於いて切に、讀者に請ふところは、左の一節に留意せられんこと是なり。

【讀者に全篇通讀を請求す】夫れ著者が、此の篇を成すや、專ら古哲先輩の所説に基き、一疑あれば、確證を得るまで之を棄てず、或は古文獻に依りて、音韻の實迹を探り、或は自家口舌上の發音に勘へて、圖上の名目を推し、一も私見を曲庇し、更に孤證に依賴する所なく、以て漸く完了するに至れるなり。而して考定し得たる所は簡單なるにも拘らず、尋及すると6/7ころ頗る多端なるが爲に、隨ひて敍述の複雜は勿論、一事の、数章に涉りて、前後相錯綜するを免れず。故に苟も讀者の了解を望まんとせば、必ず全篇通讀の勞を强ひざるを得ず。希くは、須臾、著者の不文を忍びて、勉めて通讀の勞を取られんことを。

 【國語譯】

第一章 所謂《韻鏡》爲何

蓋於中國,從古自今皆有讀書音與方音存在。隋唐時代,南北讀書音大體相同,此由《玉篇》與《廣韻》之反切無大差別可知。然而由於實際反切出的發音有所差異,故隋有天下後,舉辦面向南北人士的統一科舉考試時,諸如詩賦押韻無法之事,便首先成爲棘手的問題。因而官方在各韻不混雜的前提下,選擇出韻各相異的二百〇六字,以爲韻頭,並如吾國按伊呂波順分列詞語一樣*1,集錄可作爲詩賦韻腳的字,分別其歸屬。繼而附注字義以及符合實際發音的反切,編纂爲一部韻書,並將之運用於科舉中。是爲隋之《切韻》、唐之《唐韻》。如上所述,韻書中的這些作爲韻腳的韻,是人爲的、基於南北一致及押韻上便宜的考量而新制定出來的。爲了能夠一目瞭然讀書音(即實際發音上)讀作一個韻的字,是否屬於這個韻書中的某韻,隋唐時期就有了切韻圖。此便成爲之後宋代《七音略》、《韻鏡》的祖圖原型。這些韻圖,皆依《切韻》、《唐韻》之次第,分平上去入四聲、每聲分四等位,等位左側標識二百〇六韻。或一等有二韻,或一韻跨二等、三等。又每一等位中所舉字,檢其於《唐韻》中之反切,除齒音外,則表示其韻的下字大體爲同一等之字。依據以上大略的觀察,可知這些韻圖與隋唐韻書間有顯著之關係。(詳説至第十一章。)

切韻圖,即《韻鏡》等韻圖形成的原因,及大致之構造前文已述。在明白以上内容之後,再略加考察,便無有更爲難解的部分了。然韻圖上所示皆爲南宋以前之音韻,故後代漸次傳訛的音自不必説,即使是當時傳來吾國的音,也因為類似的音被歸併,不同轉卻同音的情況亦多有發生。又等位不同則韻必不同,但有一二等的字讀爲同韻、三四等的字讀爲同韻,如此之類,一見而不知其所以然者,不一而足。【中國之韻圖與吾國五十音相同】雖然如此,若將彼切韻圖及《韻鏡》之類,視作等同於隋唐時代之伊呂波、而非五十音圖,則其中同音同韻的字不在同一圖中、等位亦相異,不同音之間也無法區別。譬如吾國古代集錄常用音而作之五十音圖中,ア(零聲母)、ヤ(半元音j聲母)二行各有一個イ(i)、エ(e),ア、ワ(半元音w聲母)二行各有一個ウ(u),即與之同類,非可怪也。此等音,皆因於當時各有不同的發音,因此佔有其位。類似的,在當時,韻圖中某一位置中的字,除了所在位置的確當的一個音以外,四十三轉中無論何處都絶無同音之文字。以此韻圖成立之大略可知也。另外,關於韻圖上諸種名目中不明的點,茲試作一些説明。關於内外轉、等位、十六攝目等的分別意義等,需要事先了解以下的内容。【漢字的音尾】即内外的分別,在於字音除韻尾以外的體部。即au、en、ou、iku等,除去韻尾u、n、ku,便是a、e、o、i。依照發這些音時的口形,可以分爲兩脣打開較大、肌肉拉開的a與e,以及兩脣開口較小、口部聚攏的u、i與o兩組。四等即是同一口形下,因依照其字而發生的形態上的小變化而分類的。【韻圖的十六攝目】字音全體在根據主元音(大矢使用「體韻」一詞,下略)的開閉分別爲内外兩部之上,又根據兩類主元音加上韻尾的韻形,恰好可以分爲十六種。每一種各自選擇一個代表性的字,是爲十六攝目。而將其名目標識於各轉,便直接可以依此知曉某轉之主元音、韻尾合在一起的韻形;不僅如此,主元音、韻尾是何類型也一目瞭然。是爲韻圖使用上十分便利的一點。如此看來,内外轉、等位、十六攝目皆是《韻鏡》中主要的部分。不明以上數點,則其説明無論如何巧妙,到底也是没有太大價值的。【從來以爲《韻鏡》等韻圖難解之原由】如此,則此前古今各地的諸家,視此等重要之諸項,或以爲難解、或以爲不明、或以爲無用之長物,思之若此,則雖終生從事此學,終爲世人所不顧,亦不足怪矣。

【韻圖類亦當視爲易解之物】如前所述有關《韻鏡》的各項,其意義、其理由,及其用法,既明白通曉,則一朝之間,讀之平易簡明、無有疑處,視之若吾國之五十音圖,唯較之音韻上的性質略有差異,其種類相對較多耳,而當無論何人皆可容易解之。如此言之,又恐讀者將著者與現在的風氣下,那些僅得一隅而立即敷衍其辭誇張其説、罔顧先哲古人之説而誣蔑詆毀之的人視爲同類,而使拙作不得垂閱。關於此,著者數點有懇請讀者之事,請讀者留意以下一節。

【懇請讀者通讀全篇】蓋著者爲成此篇,唯於先賢古人之説,有一疑所,則不得確證便不肯罷休,或依古代文獻,探求音韻之實跡,或自省口舌上之發音,推測圖上的名目,無一處臆斷之辭,更無一處依靠孤證論説,以此而終至於書成。然雖易於考定之處,亦因多方求證,故敘述頗雜,就一事之論亦難免前後相錯,散於數章中。因而讀者若欲了解,則不得不有勞讀者通讀全篇也。誠望讀者姑且忍耐著者之不文,費通讀之勞也。

*1:如平安時代之《色葉字類抄》、室町時代後之《節用集》。

【韻鏡考】敍説

【本文】 

韻鏡考

                       大矢 透

    敍  説

著者が假名通考編述の事に從ひてより、既に數星霜を經過したり。而も天賦の魯鈍なる、自ら鞭撻すれども事、意の如く進捗せず、僅かに本編第一篇、假名源流考、第五篇音圖及手習詞歌考、外編第一篇、周代古音考の刊行せられたるのみ。而して是等諸篇の特性として音韻に關するもの最も多く、毎に韻鏡を引き來りて、之が証明を爲さざるもの殆ど稀なりき、然るに從來諸家の韻鏡を觀るや、古今に通じたる字音の龜鑑とするに非ずば、專ら反切を解し、若しくは、之を作るの具と爲さざるは莫し、著者は是等の舊説に疑ふところありしが、假名研究上、多年此の圖を操作するの間、自然所謂る漢音は、隋唐當時に於ける讀書上の音にして、是等音圖は之を基礎として成れるものなるが、やがて宋に傳はりて、經史の區々なる反切を以て、宋代の一音に歸せしむる用に供せられ、夫の煩瑣なる諸門法の如きも、殆ど皆、之が爲めに設けられたるものなることを知るに至れり。然らば、韻鏡等の宋代の音圖は宋音にして、隋唐の1/2音、即ち漢音にはあらざること明かなり。既に然らば、隋唐の讀書音を傳へたる我が國の漢音の標準と爲さんは、甚だ慊らざるところなり。されども縱ひ宋代のものなりとも、此れらの音圖を措きては、他に字音の標準と爲すべきもの無きを如何にせん。されば不滿ながらも、さるまゝに過さゞるを得ざりき。然るに幸ひにも、夙に彼の【唐以前に於ける音圖に對する徵證】國に佚したるが、此處彼處に散見せる中に、偶〃隋唐の間、夙に韻鏡、其の他の宋代の音圖の祖圖原型と思はるゝものゝ徵證を示すものありて、稍この研究の基礎の定れるより、即て此篇の起稿に筆を執ることゝはなれるなり。

【韻鏡に對して本書研究の大略】抑も韻鏡が我が國人に知られてより、既に六七百年を經たり。而も内外の別、等位の分、十六攝目の用に何等説明する所なく、音圖は實際の發音と、如何なる關係あるかをも解釋するに窮するが如き狀況にあるを免れず。一二を取りて例せんに、東も冬も同じくトウなるに、一は内轉第一開に、一は内轉第二合にあり。邦も方もハウなるに、一は外轉第三開合の二等に、一は内轉第三十一開の二等にあるが如き、若し、是に如何なる分別ありて、其の位置を異にせるにかを問はゞ、從來の韻鏡家中、何人か、これに明答を與ふるものぞ。偶〃答ふるものあるも、耳慣れざる振救、就形、前三後一、剏立音和などより、甚しきは野馬跳澗、獨立雙飛などに類する反切門法を擔ひ出でて、問者をして避易せしむる以外、他に術なかるべきなり。内外轉、等位、十六攝目を除外2/3し、その意義をも理由をも考究せずして韻鏡に對せば、此の如くなるべきは、寧、當然のことゝ爲す。されば時にこの門を覗ふものあるも、僅かに步を進むれば、難解未知の點、疑惑不審の項、圖上に充滿し、忽ち五里霧中に彷徨する苦のみにして、何等得る所無きより、終には韻鏡とだにいへば、説の難易を問はず、即ち耳を掩ひて逃げるを以て學者の習とはなれるなり。編者幸ひに明世の餘澤、先輩未見の古書涉獵の次、圖らず得る所あり。是に於いて徐々之を筆にし、是非を世に問はむとするに方り、前者のごとき題目のみを見て顧みざらん人を要して、次章に韻鏡とは如何なるものなるかを略述し、斷じてさばかり不可解のものに非ざることを知らしめんとするなり。

 【國語譯】

敍説

著者自從事《假名通考》編撰之初,既已幾歷星霜。而因天賦魯鈍,縱晨兢夕厲,其事之進展終未克如願,已刊行者僅有本編第一篇《假名源流考》、第五篇《音圖及手習詞歌考》以及外編第一篇《周代古音考》而已。而觀此等各篇之特點,關於音韻之内容最多,常援引《韻鏡》爲據,鮮有不能證明者也。然從來諸家之視《韻鏡》,或以爲貫通古今字音之圭臬,或以爲解反切、作反切之工具,而無出此二説者也。著者固疑於此等舊説,而從事假名之研究,長年運用此圖,故知之。自然所謂漢音即隋唐當時之讀書音,爲此等韻圖形成之基礎,後傳及宋代,借此等韻圖將經史上各異之反切,盡歸於有宋一代之音,如夫諸繁瑣法門,殆皆爲之所設也。然則《韻鏡》等宋代韻圖爲宋音,非隋唐之漢音之事明也。既然,則以承自隋唐讀書音的吾國漢音爲標準,實有不妥。然既以爲宋代之音,則此等韻圖之外,若無他可爲字音之標準者如之何?果若此實雖有遺恨,不得不如此而已矣。【對唐以前韻圖之考證】然幸哉,雖於其國中早已亡佚,俯拾浩繁卷帙,則偶可見證據説明,隋唐之間早已有可視爲《韻鏡》及其他宋代韻圖之祖圖原型。由此本篇的研究基礎初定,後起而執筆,以成此篇。

【本書對《韻鏡》研究之大略】蓋自《韻鏡》爲我國人所曉,已歷六七百年矣。然内外之別、等位之分、十六攝目之用無所説明,則韻圖與實際發音的關係之難以解釋,諸如此類之虞亦不免有之。謹舉一二爲例。東、冬漢音皆爲tō,東為内轉第一開,而冬爲内轉第二合。邦、方皆爲hō,邦爲外轉第三開合二等,方為内轉第三十一開二等。如此之類,若問此有如何分別以致其位置各異,則從來之韻鏡家中,果有能明答者乎。雖其偶有答者也,搬出諸如振救(三等精組字置於四等位)、就形(上字脣牙喉母三等、下字一等,歸三等,如許戈切靴)、前三後一(上字非組、下字爲通攝流攝一等,歸非組,上字幫組、下字通攝流攝三等歸幫組,如莫浮切謀)、剙立音和(上字見組、幫組、曉匣影母、下字三等卻歸四等之字,如《五音集韻》莫者切乜,以上參見董同龢〈等韵門法通釋〉,《歷史語言研究所集刊》十四(一九四八年六月))*1,甚如野馬跳澗(《四庫提要・切韻指掌圖》云:「獨其辨來、日二母云『日字與泥、娘二字母下字相通』,辨匣、喻二字母云『匣闕三四喻中覓,喻虧一二匣中窮』,即透切之法,一名野馬跳澗者。」)、獨立雙飛(影喻、曉匣二組相分,陳澧《切韻考・外篇》卷三「影喻是發聲、曉匣是送聲」,參見文雄〈磨光韻鏡序〉、錢大昕《十駕齋養新錄・影喻無分之説》)此類佶屈聱牙之辭,唯賴此辟易問者,黔驢技窮矣。執《韻鏡》,而内外轉、等位、十六攝目之外,其意義其理由悉皆不考。至於此可謂理所當然耳。然則時有窺涉此門者,初入門徑,則難解未知之所,疑惑不明之例,充斥圖上,一時彷徨於五里霧中,以為苦痛,於此無所得,終言及《韻鏡》,則不問説之難易,即掩耳趨走,遠學者之習也。編者幸承其時,涉獵先輩所未見之古書,不意有所得。於是徐徐執筆,出而以問是非于世。或有如前所述,觀題目而不敢開卷者,故次章先略述所謂《韻鏡》爲何,欲以曉此斷非深奧不可解之物也。

 

*1:中研院提供網路閱覽:4784KuBVmyL.pdf (sinica.edu.tw)

【韻鏡考】目次

韻鏡考

目次

敍説/一頁

第一章 韻鏡とは如何なるものなるか/三頁

第二章 韻鏡の我が國に入れる以來の狀況/七頁

第三章 韻鏡の歸字の時代の觀察/九頁

第四章 韻鏡の原型の尋繹/十三頁

第五章 韻鏡の原形は夙に隋代に成れり/十七頁

第六章 音圖製作の目的及び用法/二一頁

第七章 字音の成立/二五頁

第八章 七音三十六字母/三二頁

第九章 音尾の種類/四五頁

第十章 四聲の古今一貫/五十頁

第十一章 等位と二百六韻との關係及び轉次/五七頁

第十二章 開合轉と開合二音/七一頁

1/2

第十三章 内外轉及び十六攝目/八二頁

第十四章 影喩二母とアヤワ三行との關係/一〇六頁

第十五章 反切の始/一二五頁

第十六章 反切の構成及び其の名義/一四五頁

第十七章 二十圖式音圖の作者年代幷びに之と門法との關係/一五二頁

第十八章 反切門法幷びに其の用法/一六三頁

 第一節 梗概/一六三頁

 第二節 音和類の諸門法を解釋す/一七一頁

 第三節 類隔類の諸門法を解釋す/一九一頁

第十九章 韻鏡異本の比較/二〇二頁

概 括/二一四頁

 

 以 上

【韻鏡考】要項

【本文】

讀音に對し著者が特に注意を請はんとする要項

第一、音圖成立の時代 宋以來、音圖は唐末以後のものなるべく謂へるに、編中、韻鏡は隋唐以上の切韻圖の宋末に傳われるものなりと爲せり。こは唐初の武玄之が韻詮の悉曇藏に引かれたるに、既に同式の音圖ありしことの明かなるによりて推知せられればなり。(第四章、第五章)

第二、反切製作の時代 隋唐以來、反切は魏の孫炎の作といへるに、編中、反切の製作を以て後漢譯經の時に在りと爲せり。こは後漢書和帝紀李賢注に、許慎の反切を引けるをみては、經典釋文に舉げたる漢人の反切を悉く後人の所託とのみ見難きものあればなり。(第十五章)

第三、二百六韻の性質 隋初に於いて、二百六韻を定めたる所以は、詩賦押韻上の兩〔南〕北一致に在り。されば、成る可く兩者の相通を勘へ、同用を多くし、主として四聲の別を明かにし、口舌上の開合、四等に分るる真韻を合せて、一韻頭若くは數韻頭を以て、之に當て、苟も聲調を損ぜざらん限りに於いて、辭句の押韻を自在ならしむるものと爲す。故に二百六韻は、音圖の等位に現はるる、口舌上の韻の全數にはあらずと知るべし。(第十一章)1/2

第四、等位の解釋 韻鏡等の音圖の縱行横列は、猶五十音の如く、竪に同頭音の文字を次いで、横に同韻の文字を列ねたるものにして、共に悉曇に倣ひたるものなり。されば、此の横列、一も假設のものに非ずして、毎横列、特異の韻を有すべきものとす。尚其の細説は、本文に讓り、聊かここに搔い摘みて云はんに、廣韻入聲一屋に、鏃(作木切)、粥(之六切)、縬(側六切)、蹙(子六切)の四音頭あり。而して其の反切の上字は、何れも齒音の清音にして、作、子は則、臧、祖等と共に、精母の一等と四等との反切にのみ用ゐられ、側は阻、仄、莊等と共に、照(一)母の第二等の反切にのみ用ゐられ、之は章、征、少等と共に、照(二)母の第三等の反切にのみ用ゐられるること、他の清濁の齒音と共に、諸轉を通じて同例なり。斯くして二三四の三等の反切を撿するに、上字は異なれど、下字の同じきは、上字發聲の勢いによりて、聊か其の韻形を變ずるに由るにもあらんか。是等の例は、喩母に於い于、王、羽等の喩(一)母の文字を上字とするものは、下字の如何に關らず、第三等に、羊、以、悦等の喩(二)母の文字を上字とするものは、直ちに第四等に列するを法と爲すと同例なりとす。是等は皆、等位の韻形に由りて然るものにして、其の韻形は、清の康煕、乾隆の鴻儒江永、戴震等の「一二三四等列、一等洪大、二等次大、三四等俱細而四尤細」といへる説によりて知らるることとなるが、其の説の據るに足るべきことは、我が延曆以上に於いて、アヤ二行のエに分別あると暗合するものありて、歸するところ、俱に發音點に於ける口形の細大にあるな2/3り。(第十一章、第十四章)

第五、内外轉の別と十六攝目の用 七音略、韻鏡等の諸音圖は内外に分つを例とすれど、音圖により間〃異同あるが故に、其の分別の理由を知ること能はず。爲めに我が國にては勿論、支那宋以來の音韻家にして、未だ曾て之に明解を下ししものあるを聞かず。唯切韻指掌等に、齒音以外に於いて第二等の有字無字に由て、之を分つことを云へれど、嘗みに七音略、韻鏡等に就いて見るに合はざるものあり。是に於いて、特に七音略其の他の諸音圖を通觀して、其の異同を比較せる結果、内外轉は、字音の頭尾の子音を省ける體韻(母音)を呼ぶ口形の分別にして、即ちオ、ウ、イは口を撮めて發し、一等より四等に向つて連呼するときは、恰も内方に轉ずるがごとく感ずるが故に、之を内轉といひ、ア、エは口を張り、連呼するときは、さながら外方に轉ずるに似たるが故に、之を外轉と名けたるものなることを知るに至れり。隨ひて毎轉圖端に記入せる十六攝目の用を明かにすることを得たり。そは右の如く、發音口形もて定められたる内轉に見えたる攝目を撿すれば、通、止、遇、臻、果(唐宋以後オ韻なり)、流、深、曾の八にして、體韻は撮口呼、外轉に記されたるは宕、江、梗、効、假、蟹、山、咸の八にして、體韻は張口呼なり、而して音尾は攝目と同じくして、内外同音尾相對せり。されば若し音圖使用者にして、自ら識れる文字若くは音韻の何れの轉に屬せるか、又は屬すべきかを知らんとするに、先づ内外に注意し、體韻と音尾3/4とを同じくする攝目を探らば、容易に其の處を知るべし〔。〕是にて内外轉の別と攝目の用との、音圖上缺く可からざるものあることを覺るべきなり。(第十三章)

以上の數項は、實に本篇の骨髓たり。即ち是れ有るが爲めに、本篇は成れりといふも可なり。讀者之を繙かんとせば、必ず先づ此の數項を一讀過し、聊かにても所見を異にするもののあらば、直ちに反駁せんの意氣を以て、宜しく各章を熟讀すべし。是著者が切に讀者に請ひて止まざるところなり。

大正十三年七月                  韻鏡考著者識4/

 【國語譯】

韻鏡考

著者所希望重視關於讀音的數點要項

第一、音圖成立的時代。宋代以來,一般認為音圖出現於唐末以後。本編認為,宋末之《韻鏡》繼承自隋唐以上的切韻圖。據《悉曇藏》所引唐初武玄之《韻詮》一段,即可以推測當時已有與《韻鏡》同一形式的音圖。(第四章、第五章)

第二、反切製作的時代。隋唐以來,一般認為反切為魏人孫炎所作。本編認為,反切之製作在於東漢譯經之時。自《後漢書・和帝紀》李賢注所引許慎之反切一事而觀,《經典釋文》所舉漢人的反切未必全爲後人所託名僞造。(第十五章)

第三、二百六韻的性質。隋初之定二百六韻,在於使南北地方詩賦押韻一致。於此之上,盡力析究兩者的相通之處,多設同用,以分別四聲為主。其中的一個或數個韻(韻頭),對應實際發音上區分開合、四等的「真韻」。以此,則假使在僅限於不破壞聲調的情況下,辭句的押韻可變得相當自在。故應可知,二百六韻是表現於音圖的等位上的韻數,而非實際發音的全部韻數。(第十一章)

第四、等位的解釋。《韻鏡》等音圖,採取與五十音圖相類的縱行横列模式,即縱向排列同輔音(頭音)字、横向排列同韻字,此皆是模倣悉曇文字而爲之。然則此中之横列,並非著者之一假説,每列皆應代表各異的韻。細説的部分到本文再論,在此先簡單提及。《廣韻》入聲一屋中有鏃(作木切)、粥(之六切)、縬(側六切)、蹙(子六切)四個小韻(音頭)。其反切上字皆爲齒音的清音,然作、子與則、臧、祖等僅用於精母一等、四等的反切,側與阻、仄、莊等僅用於莊(照(一))母第二等的反切,之與章、征、少等僅用於章(照(二))母第三等的反切。其餘清濁齒音、諸轉與此同例。如此二三四等之反切所見上字雖異而下字同者,或許是由於韻形會隨上字發聲的形態而稍變。此等例與喻母中于、王、羽等爲上字的云(喻(一))母,無論下字爲何皆歸於三等;而羊、以、悦等爲上字的以(喻(二))母字徑歸於四等之定法同例。此等皆是因等位上的韻形不同所造成。其韻形,由清康乾間的鴻儒江永、戴震等人「一二三四等列、一等洪大、二等次大、三四等俱細而四尤細」之説可知。吾國於延曆以上,ア(零聲母)、ヤ(半元音j聲母)二行之エ(e)相別,與之暗合,足可爲其説之依據。究其指歸,二者皆於發音時口形有細與大之別。(第十一章、第十四章)

第五、内外轉之別與十六攝之用。《七音略》、《韻鏡》等各家韻圖雖都以分別内外轉為例,然韻圖間大同小異,其分別内外之理由未能知之。故吾國自不待言,即使是中國自宋以來的音韻學家,也未曾聞有能明確解釋之者。唯《切韻指掌圖》等中云,内外轉以齒音以外第二等有字無字爲分別*1,然試觀《七音略》、《韻鏡》而與此説齟齬也。關於此一點,尤其是通觀《七音略》等諸家韻圖,比較其異同之後可知,内外轉之分別即在於指除去字音頭尾字音之「體韻」(主元音)發音時口形。即o、u、i爲閉元音,自一等至四等連續發音時,恰能感到向内轉之口形,故稱之為内轉;a、e則爲開口音,連呼時感到向外轉,故名爲外轉可知也。因此每一轉圖起頭所記之十六攝目之用可明也。即如右所述,内外轉依發音時之口形而定,檢視内轉中之攝目,有通、止、遇、臻、果(唐宋以後爲o韻)、流、深、曾八攝,主元音爲閉元音,而外轉之攝目,有宕、江、梗、効、假、蟹、山、咸八攝,主元音為開元音,且韻尾與攝目一樣,内外二轉相對、各有一套韻尾。以此,若韻圖使用者欲知己所識之字或所知之音屬於何轉、或應當屬於何轉,則先注意其内外,爾後尋找主元音與韻尾相同的攝目,便容易知其所處。以此可見,内外轉之別與攝目之用,是為韻圖上不可或缺之一部。 

以上數項,實爲本篇之精髓。即可謂因有此而本篇可成。讀者欲開卷則當先通讀此數項,若有所異見,則當徑以反駁之意氣而細讀各章。著者之懇請於讀者,止此而已。

大正十三年(一九二四)七月            《韻鏡考》著者識

*1:文雄〈磨光韻鏡序〉:「内外轉者《切韻指掌》云,内轉者,取唇舌牙喉四音,更無第二等字,唯齒音方具足。外轉者,五音四等都具足。舊圖以通止遇果宕曾流深八字括内轉六十七韻,江蟹臻山效假梗咸八字括外轉一百三十九韻。

【韻鏡考】凡例

【本文】

韻鏡考

凡例

一、此の篇は、假名通考外篇第五篇にして、韻鏡に對する諸般の事項を考證し、解釋したるものなり。

一、韻鏡は、我が國に於いて、古今の字音を論ずるものの標準とせらるること既に久し。しかもこは、本來宋人が、宋代當時の字音を標準として、經史上區區なる反切の音を切して、悉くその一代の音に歸せしめ、以て古今の音を一定せんが爲に用ゐたりしものなること、此の篇に於いて論證するところなり。韻鏡にして既に宋代の音なることを知る。しかも尚以前隋唐の讀書音なりし漢音を考ふる標準としてあらんは、著者が常に快しとせざるところなり。仍て稍篇次を逐はざる嫌ありといへども、茲に漢呉音考の數篇を距え、敢えて此の篇成稿を急げ1/2る所以なり。

一、此の篇、漢呉音の音尾を記すには、我が國普通の字形を用ゐたり。但し、隋唐の原音を推測して記すには、拙著假名源流考以來慣用せし例に從ひ、口尾音はウ、イ、喉内音尾はク、舌内鼻音尾はヌ、脣内鼻音尾はム、喉内入聲音尾はク、舌内入聲音尾はヌ、脣内入聲音尾はムを用ゐ、又ヤ行のイはイ、同じくエはエを用ゐたり。

一、此の篇、稿略〃成るの後、舊國語調査委員會主査委員文學博士上田萬年、同會委員文學博士芳賀矢一兩氏の一閲を煩はしたるものなり。

一、此の篇、起草より、成稿に至るまでの間に於いて、文學博士大槻文彦、文學博士新村出、文學博士森林太郎、今泉雄作、春日政治、山田孝雄、飯島忠夫等諸氏の助力に頼るところ頗る大なり。又其の出版に關する一切につきては、一に知友濱野知三郎氏の斡旋に頼るものなり。2/

【昭和五十三年九月勉誠社景印大正十三年十二月明名堂印刷本(下略)】

 【國語譯】

韻鏡考

凡例

一、此一篇爲《假名通考》外篇第五篇,篇中關於韻鏡的各種問題進行了考證、解釋。

一、《韻鏡》在吾國長期以來被視爲論議古今字音之標準。然《韻鏡》一書,實爲宋人以宋代當時的字音為標準,將經史書籍中各異之反切盡歸於宋代一時之音,欲以定古今之音而爲用者也。此在篇中有論。《韻鏡》爲宋代之音可知也。而此前有以《韻鏡》爲隋唐讀書音或以爲探討漢音標準者,著者常常對此懷有不快。因此,即使篇章順序上有不逮之嫌,著者仍將之與《漢吳音考》隔開數篇而及早成稿。

一、此一篇中表記漢音、吳音音尾時,使用吾國通用之字形。然表記推測的隋唐時音時,則按拙著《假名源流考》以來之慣例(*以下漢語部分使用羅馬字表記),口尾音表記爲-u、-i,軟腭(喉)鼻韻尾爲-ŋ,齒齦(舌内)鼻韻尾爲-n,雙脣(脣内)鼻音韻尾為-m,軟腭入聲韻尾爲-k,齒齦入聲韻尾爲-t,雙脣入聲韻尾爲-m。又i、e與y(j-)相接表記作yi、ye。

一、此篇原稿初成之後,有勞於舊國語調查委員會主査委員文學博士上田萬年、同會委員文學博士芳賀矢一二氏改訂。

一、此篇自起草洎於完稿,此間受到文學博士大槻文彦、文學博士新村出、文學博士森林太郎(鷗外)、今泉雄作、春日政治、山田孝雄、飯島忠夫等諸氏關照頗多。又此書出版之事宜,一賴摯友濱野知三郎先生幫助。