以出齋 | Itshoh Tse

禮以行之 孫以出之 信以成之

【韻鏡考】第六章 音圖製作の目的及び用法

【本文】

    第六章 音圖製作の目的及び用法

前章に述べたるが如く、切韻編集に先ちて、既に音圖の存在したりとするときは、そ【隋代切韻を編集せし因由】は何等の目的に向ひて製出せられしにか。今之を知らんと欲せば、先づ隋代に於いて、切韻の編集せられたる因由より尋ねざる可らず。乃ち廣韻の首に舉げたる切韻の序に、

昔開皇初、有儀同劉臻等八人、同詣法言門­宿。夜永酒闌、論及音韻。以古今聲調、既自有別、諸家取捨、亦復不同。(中略)呂静韻集、夏侯該韻略、陽休之韻略、李季節音譜、杜臺卿韻略等各有乖互、江東取韻、與河北復殊。因論南北是非、古今通塞、欲更捃選精切、除削疎緩、蕭トガ多所決定。魏著作謂法言曰、向來論難疑處悉盡、何不一レ記之、我輩數人定、則定矣。法言即燭下、握筆略記綱紀、博問英辯、殆得精華。(下略)

とあり。文中八人とは、此の序の前に於いて、廣韻勒成進上の際、切韻以來、撰󠄀集箋注、増【隋に於ける國定韻書調查委員會委員】修等に關れる人名を具申せるが中なる、儀同三司劉臻、外史顔之推、著作郎魏淵、武陽太守盧思道、散騎常侍李若、國子博士蕭該、蜀王諮議參軍辛德源、吏部侍郎薛道衡とあるを指せるにて、是等は切韻、即ち國定韻書の調查委員會の委員たりしなり。而して、各員互ひに自家識るところの音を執りて甲論乙駁、容易に決し難きに至りて、南方の耆宿顔之推と北方の老儒蕭該とが批判によりて、始めて定まれるところお多かり21/22し狀態、宛ら現りに睹るが如し。

かくの如く、隋に於いて韻書國定の必要起こりし所以は天下一統の結果として、南北異音の人士、交〃一朝廷に集れるより、文藝上は言ふに及ばず、何れの方面に於いても、その不便甚しかりければなり。而も一字に對して、其の音を規定するに方り、立案者たるものは、豫め先づ各員共通の音圖を要すべき理なるが故に、立案と同時に、一の音圖を提出せしや疑ふ可らず。是前章に舉げたるが如く、種々なる點に於いて、韻鏡等の音圖と切韻との間に自ら合期一致せるところを示せる所以なり。而して切韻既に成り、之を天下に行ふに至り、其の音は、右の如く新たに規定せるものなるが故に、其の反切の上下字を讀むに、各自の方音を以てするときは、尚正音を發すること能はざるものあるを如何にせん。是に於いて、右の切韻規定の爲に用ゐし、此の音圖を取りて、切韻中の音頭文字を記入するときは、假令、反切を解せざるものといへども、容易に正音を發することを得べし。是隋唐に於いて切韻、唐韻と同時に是等音圖の必要なりし所以なり。

隋唐に於ける音圖の必要は、右の如くなりしが、其の統一せる字音は、唐を通じて實行すること三百年、天下其の音に習熟すること既に久しく、宋に至りては、時音に對して其の反切を解せざるはどのものもなく、之が爲に、反切を借らずして、直ちに知るべき音圖の用、全く絶えたりしに、宋初翰林學士丁度等が著手して未だ成らざり22/23し集韻、司馬光等に至りて新たに成り、天下に頒たれし頃より、漢魏以來種々にして一定せざる經史の反切を取りて、悉く宋代の一音に歸せしむる必要を生じ、即ち隋唐以來、世に傳はれる音圖に基き、集韻其の他の宋代當時の音頭を配記し、先づ切韻類例、七音略、韻鏡の如き音圖、相尋いで出來、終に是等の音圖は、專ら種々の反切を解するに用ゐられしのみらなず、古今を貫き、南北を通じて字音を律すべき龜鑑なりと思惟するに至れり。

【音圖用途の三轉】以上述ぶるところによりて見れば、音圖の用は、初は、韻書規定の標準として作られ、次には、韻書の反切の音を示すと同時に、之を解し得ざるものゝ爲に、直ちに口處、清濁等によりて正音を發することを得べからしむる用に供せられ、終に、經史上、異音の反切を、一時代の音に歸するように供せらるゝに至れるものにして、前後三轉を爲せるものなり。而してこは、文字國たる支那に在りては、自然の必要に應じたる當然必至の變遷と謂ふべきなり、殊に、最後の一轉に在りては最も適切にして、若し是無らんには、經史の讀法と現時の呼法の乖離甚しく、所謂、言文一致ならざるが爲に、讀法教授の上に大なる不便を感ず可きなり。されば、宋人は、此の音圖に頼るにはらずば、經史の反切は解すること能はざるものと爲し、以て其の精微を嘆じ、妙用を讃して措かざる所なり。而も畢竟は隋唐の原圖の音頭文字に替ふるに、宋代の時音に成れる歸字を以てし、經史上疑はしき反切あるときは、取りて之に擬し、合はざるとき23/24は、類隔其の他の音例に問ひ、强いて宋代現時の口舌上の音に牽合する手段に外ならざるなり。之を古音保存の方より觀るときは、頗る穏當ならざるものに似たりといへども、苟も文義の識得を重んずる上より考ふれば、是亦事宜に對して最も適切【支那と我が國とは音圖の用を異にす】なる處置と謂はざる可らず。さりながら此は唯支那の如く、字音は即ち言語なる國に於いての事のみ、本來既に固有の國語ありて、之に交ふるに主として齊梁の吴音、隋唐の漢音を以てし、且つ其の字母の如き、相近きは既に呼びて一音と爲せる我が【韻鏡は宋時のものにして之に據りて音を得るも我が國の漢呉音には適すべからず】國に適用するに、其の處有る可らず。假令、適用し得たりとすとも、そは我が國の漢音にはあらで、宋代の時音に歸したるに過ぎざれば、畢竟、徒事徒勞たるを免れず。

抑も我が國の漢音は、既に云ふが如く、隋唐中原の正音の五經博士、入唐僧等を介して入り來れるものなりしといへども、我が國人の耳と口とによりて、自然に國音と融和せるものなるが、假名書きせしより次第に變化を來し、遂に今日の如き呼法と【漢字音假名遣を規定するに音圖の必要】はなれるなり。而して字音を假名もて記すところの所謂る字音假名遣の最も正しき標準を定めんとするには、必ず隋唐當時の原音を明らかにして、最も之に近き形を以て規定せざる可からず。而して其の隋唐當時の原音を明らかにせんには、隋唐の音頭を規定する標準と爲せる音圖を以て基礎としたる七音略、若くは韻鏡に頼る以外、他に道無かる可し。又、我が國には、周漢以來六朝の間、隨時入り來れる字音は、地名に、人名に、事物の名稱に、何くれとなく用ゐられたるが、後に隋唐の漢音に混じ、初は真假24/25名となり、後には片假名、平假名となりて今に遺れり。されば、是等の字音の來源を知らんとするには、必ず周漢以來、歷代を逐ひ、變遷せる字音を審かにせざる可らず。爾【韻鏡は宋音なるが故に漢音を正す用に適せず】かするに至らば、其の歷代の異音を、宋元の音に歸する爲にせる反切の門法を以て、漢魏お甲音の、晋宋の乙音に變じ、晋宋の乙音の、齊梁の丙音に遷りて、轉々化々せる理由を論じ、次第を説くの名目に應用することを得べきなり。

右の如く、一たび其の用法を變ずるときは、前に云ふが如く、其のまゝに我が國に移【韻鏡の轉用】しては、無用の長物たるを免れざる宋代の音圖、幷びに反切の門法も、亦優に我が國、音韻學上、重要なる地位を占むるものとなれり、是に於いて、著者は假名通考著手の初より、絶えず是等音圖の構成は勿論、之に關する種々なる名目につきて、從來其の理由の覺束無かりしもの、其の意義の定かならざりしものゝ考索を怠らざりしが、近時稍ゝ緒に著けるを覺ゆ。乃ち之が敍述に著手せんとするに當り、豫め漢字音の成立を明かにする必要を感ずるがまゝに、之を略言すること次章の如し。

 【國語譯】

第六章 音圖製作之目的及用法

如前章所述,韻圖早於《切韻》編集之先已存在。則其出於何種之目的而製出耶。今欲曉之,則不可不先明隋代編集切韻之因由。乃《廣韻》卷首所舉〈切韻序〉所言:

昔開皇初,有儀同劉等八人,同詣法言門宿。夜永酒闌,論及音韻。以古今聲調,既自有別,諸家取捨,亦復不同。(中略)呂静《韻集》、夏侯該《韻略》、陽休之《韻略》、李季節《音譜》、杜臺卿《韻略》等各有乖互,江東取韻,與河北復殊。因論南北是非,古今通塞,欲更捃選精切,除削疎緩,蕭(該)(之推)多所決定。魏著作(彦淵)謂法言曰,向來論難,疑處悉盡,何爲不隨口記之。我輩數人,定則定矣。法言即燭下、握筆略記綱紀。博問英辯、殆得精華。(下略)

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國立國會圖書館《大宋重修廣韻》五卷一葉裏至三葉表

文中八人,即此序前中所呈《廣韻》勒成進上時,《切韻》以來撰集、箋註、增修等相關人員名單中所及八人:儀同三司劉臻、外史顔之推、著作郎魏淵、武陽太守盧思道、散騎常侍李若、國子博士蕭該、蜀王諮議參軍辛德源、吏部侍郎薛道衡。由此以爲,此等諸位即是國定韻書調查委員會之委員也。然各員各執其方音,莫衷一是,難以易決,多由南方之耆宿顔之推及北方之大儒蕭該批判定奪,而如今所覩之形。

一如前述,有隋一代,韻書國定之必要,起於天下統一,而南北異音之濟濟多士,集於一朝,文藝上自不必言,而於諸方面皆甚爲不便。而定一字之音,立者理當事先預備各員共通之韻圖,是字音之立,同時亦成一韻圖,此無疑也。是故如前章所言,《韻鏡》等韻圖與《切韻》自然於諸多方面合同一致也。而《切韻》既成,至於行之天下,如前所述,因其字音爲重新訂立,故其以各自之方音,讀其反切上下字,尚不能發其正音則如何。於是取前述《切韻》爲規定字音所用之韻圖,寫入《切韻》中之小韻,則雖不解反切,亦可容易得其正音也。是故於隋唐之世,覽唐韻之時,此等韻圖爲必要者也。

隋唐時韻圖之必要,已如前述。夫統一之字音,實行於有唐一代之三百年,天下熟習其音既久,至於趙宋,則其反切於時音莫不能解,是故原爲不借反切亦能直曉其音所作之韻圖之用不復矣。而自宋初翰林學士丁度等所始作而未成、司馬光等始付梓之《集韻》集成,頒於天下,則有取漢魏以來種種未得定準之經史上之反切、悉皆歸於宋代之一音之必要。遂取隋唐以來行世之韻圖,以爲基準,配記《集韻》等宋代韻書之小韻,前述《切韻類例》、《七音略》、《韻鏡》之儕相繼問世,終於此等之韻圖,不僅專爲解種種反切之用,更有以爲將通貫古今南北之字音歸一之龜鑒者也。

【韻圖作用的三次轉折】如前所述,韻圖之用,初爲韻書規定字音之標準所作。次因韻書作反切之同時,爲使不解者可得而可逕曉其發音之部位與清濁、以發正音之用而作。終以經史上異音之反切,歸於一時代之音所作。前後凡此三變。而此可謂於彼漢字之國,應運而生的必然之變遷。其最後一次轉折可謂最爲適切,若無此變,則經史上之讀法與現實之口音大相徑庭,所謂言文不一致,而讀法之教授上亦當感其大爲不便。然則宋人不依此圖,則經史之反切不能解,亦不得歎其精微、讚其妙用也。然畢竟其替換原有隋唐韻圖之小韻文字,改之以宋代時音之歸字,遇其經史上有疑之反切,取之擬入圖中而不合之時,僅能歸罪於類隔或其他之例,強以宋代時音來附會。自古音保存之角度觀之,似非十分穩當之手段。但若僅以通曉文義上考量,則亦不可不謂最爲適切之處置。然此僅限於如中國一般字音即語言之方,吾國原來既有本邦之國語,其間又有以齊梁之吳音、隋唐之漢音,隨其字母將相近之音呼爲一音,則無有適用之所也。縱適用之,則無非以吾國之漢音歸於宋代之時音耳,不免徒勞而已矣。

蓋吾國之「漢音」,一如前述,雖介由隋唐中原正音之五經博士、入唐僧等而來,然經吾國人之口耳,與國音自然相融,又寫以假名,漸次變化而來,遂成今日之呼。【韻圖於規定漢字音假名遣之必要】然以假名記字音,即所謂字音假名遣,欲定其最正之標準,必明隋唐當時之原音,不可不以最近於原音之形規定之也。而欲明隋唐當時之原音,則僅能賴夫基於以隋唐小韻爲定準之韻圖而作之《七音略》或《韻鏡》,此外更無他法。又,自周漢以來六朝之間,時時而入吾國之字音,於吾國之地名、人名、物名上,多方取用,後又混入隋唐之漢音,初爲萬葉假名(真假名),後又爲片假名、平假名而遺於今。如是,則欲知此等字音之來源,必不可不審知周漢以來歷代隨變之字音也。【《韻鏡》爲宋音故於正漢音不適切】然則縱是以歸歷代之異音於宋元一音之反切門法,亦可論彼漢魏、晉宋、齊梁間字音輾轉變化之理由,應用於彼説次第之名目中也。

【《韻鏡》的轉用】若此,一變其用法,則如前所云,所謂照搬入吾國則不免爲無用長物之宋代韻圖、及其反切門法,亦於吾國音韻學上占重要之地位也。於是,著者自著手《假名通考》以來,就此等韻圖之構成、及於與之相關之種種名目,其從來之理有疑者、其意義無定説者,考案不怠絶也。近來始覺稍通其頭緒矣。然欲始就此敘述,感當先明漢字音之成立,故於下章略言之。