以出齋 | Itshoh Tse

禮以行之 孫以出之 信以成之

【韻鏡考】敍説

【本文】 

韻鏡考

                       大矢 透

    敍  説

著者が假名通考編述の事に從ひてより、既に數星霜を經過したり。而も天賦の魯鈍なる、自ら鞭撻すれども事、意の如く進捗せず、僅かに本編第一篇、假名源流考、第五篇音圖及手習詞歌考、外編第一篇、周代古音考の刊行せられたるのみ。而して是等諸篇の特性として音韻に關するもの最も多く、毎に韻鏡を引き來りて、之が証明を爲さざるもの殆ど稀なりき、然るに從來諸家の韻鏡を觀るや、古今に通じたる字音の龜鑑とするに非ずば、專ら反切を解し、若しくは、之を作るの具と爲さざるは莫し、著者は是等の舊説に疑ふところありしが、假名研究上、多年此の圖を操作するの間、自然所謂る漢音は、隋唐當時に於ける讀書上の音にして、是等音圖は之を基礎として成れるものなるが、やがて宋に傳はりて、經史の區々なる反切を以て、宋代の一音に歸せしむる用に供せられ、夫の煩瑣なる諸門法の如きも、殆ど皆、之が爲めに設けられたるものなることを知るに至れり。然らば、韻鏡等の宋代の音圖は宋音にして、隋唐の1/2音、即ち漢音にはあらざること明かなり。既に然らば、隋唐の讀書音を傳へたる我が國の漢音の標準と爲さんは、甚だ慊らざるところなり。されども縱ひ宋代のものなりとも、此れらの音圖を措きては、他に字音の標準と爲すべきもの無きを如何にせん。されば不滿ながらも、さるまゝに過さゞるを得ざりき。然るに幸ひにも、夙に彼の【唐以前に於ける音圖に對する徵證】國に佚したるが、此處彼處に散見せる中に、偶〃隋唐の間、夙に韻鏡、其の他の宋代の音圖の祖圖原型と思はるゝものゝ徵證を示すものありて、稍この研究の基礎の定れるより、即て此篇の起稿に筆を執ることゝはなれるなり。

【韻鏡に對して本書研究の大略】抑も韻鏡が我が國人に知られてより、既に六七百年を經たり。而も内外の別、等位の分、十六攝目の用に何等説明する所なく、音圖は實際の發音と、如何なる關係あるかをも解釋するに窮するが如き狀況にあるを免れず。一二を取りて例せんに、東も冬も同じくトウなるに、一は内轉第一開に、一は内轉第二合にあり。邦も方もハウなるに、一は外轉第三開合の二等に、一は内轉第三十一開の二等にあるが如き、若し、是に如何なる分別ありて、其の位置を異にせるにかを問はゞ、從來の韻鏡家中、何人か、これに明答を與ふるものぞ。偶〃答ふるものあるも、耳慣れざる振救、就形、前三後一、剏立音和などより、甚しきは野馬跳澗、獨立雙飛などに類する反切門法を擔ひ出でて、問者をして避易せしむる以外、他に術なかるべきなり。内外轉、等位、十六攝目を除外2/3し、その意義をも理由をも考究せずして韻鏡に對せば、此の如くなるべきは、寧、當然のことゝ爲す。されば時にこの門を覗ふものあるも、僅かに步を進むれば、難解未知の點、疑惑不審の項、圖上に充滿し、忽ち五里霧中に彷徨する苦のみにして、何等得る所無きより、終には韻鏡とだにいへば、説の難易を問はず、即ち耳を掩ひて逃げるを以て學者の習とはなれるなり。編者幸ひに明世の餘澤、先輩未見の古書涉獵の次、圖らず得る所あり。是に於いて徐々之を筆にし、是非を世に問はむとするに方り、前者のごとき題目のみを見て顧みざらん人を要して、次章に韻鏡とは如何なるものなるかを略述し、斷じてさばかり不可解のものに非ざることを知らしめんとするなり。

 【國語譯】

敍説

著者自從事《假名通考》編撰之初,既已幾歷星霜。而因天賦魯鈍,縱晨兢夕厲,其事之進展終未克如願,已刊行者僅有本編第一篇《假名源流考》、第五篇《音圖及手習詞歌考》以及外編第一篇《周代古音考》而已。而觀此等各篇之特點,關於音韻之内容最多,常援引《韻鏡》爲據,鮮有不能證明者也。然從來諸家之視《韻鏡》,或以爲貫通古今字音之圭臬,或以爲解反切、作反切之工具,而無出此二説者也。著者固疑於此等舊説,而從事假名之研究,長年運用此圖,故知之。自然所謂漢音即隋唐當時之讀書音,爲此等韻圖形成之基礎,後傳及宋代,借此等韻圖將經史上各異之反切,盡歸於有宋一代之音,如夫諸繁瑣法門,殆皆爲之所設也。然則《韻鏡》等宋代韻圖爲宋音,非隋唐之漢音之事明也。既然,則以承自隋唐讀書音的吾國漢音爲標準,實有不妥。然既以爲宋代之音,則此等韻圖之外,若無他可爲字音之標準者如之何?果若此實雖有遺恨,不得不如此而已矣。【對唐以前韻圖之考證】然幸哉,雖於其國中早已亡佚,俯拾浩繁卷帙,則偶可見證據説明,隋唐之間早已有可視爲《韻鏡》及其他宋代韻圖之祖圖原型。由此本篇的研究基礎初定,後起而執筆,以成此篇。

【本書對《韻鏡》研究之大略】蓋自《韻鏡》爲我國人所曉,已歷六七百年矣。然内外之別、等位之分、十六攝目之用無所説明,則韻圖與實際發音的關係之難以解釋,諸如此類之虞亦不免有之。謹舉一二爲例。東、冬漢音皆爲tō,東為内轉第一開,而冬爲内轉第二合。邦、方皆爲hō,邦爲外轉第三開合二等,方為内轉第三十一開二等。如此之類,若問此有如何分別以致其位置各異,則從來之韻鏡家中,果有能明答者乎。雖其偶有答者也,搬出諸如振救(三等精組字置於四等位)、就形(上字脣牙喉母三等、下字一等,歸三等,如許戈切靴)、前三後一(上字非組、下字爲通攝流攝一等,歸非組,上字幫組、下字通攝流攝三等歸幫組,如莫浮切謀)、剙立音和(上字見組、幫組、曉匣影母、下字三等卻歸四等之字,如《五音集韻》莫者切乜,以上參見董同龢〈等韵門法通釋〉,《歷史語言研究所集刊》十四(一九四八年六月))*1,甚如野馬跳澗(《四庫提要・切韻指掌圖》云:「獨其辨來、日二母云『日字與泥、娘二字母下字相通』,辨匣、喻二字母云『匣闕三四喻中覓,喻虧一二匣中窮』,即透切之法,一名野馬跳澗者。」)、獨立雙飛(影喻、曉匣二組相分,陳澧《切韻考・外篇》卷三「影喻是發聲、曉匣是送聲」,參見文雄〈磨光韻鏡序〉、錢大昕《十駕齋養新錄・影喻無分之説》)此類佶屈聱牙之辭,唯賴此辟易問者,黔驢技窮矣。執《韻鏡》,而内外轉、等位、十六攝目之外,其意義其理由悉皆不考。至於此可謂理所當然耳。然則時有窺涉此門者,初入門徑,則難解未知之所,疑惑不明之例,充斥圖上,一時彷徨於五里霧中,以為苦痛,於此無所得,終言及《韻鏡》,則不問説之難易,即掩耳趨走,遠學者之習也。編者幸承其時,涉獵先輩所未見之古書,不意有所得。於是徐徐執筆,出而以問是非于世。或有如前所述,觀題目而不敢開卷者,故次章先略述所謂《韻鏡》爲何,欲以曉此斷非深奧不可解之物也。

 

*1:中研院提供網路閱覽:4784KuBVmyL.pdf (sinica.edu.tw)