以出齋 | Itshoh Tse

禮以行之 孫以出之 信以成之

【以出齋日誌】辛丑年六月初五

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蔣斧《唐寫本切韻》跋(一九〇八)

【現在進行中】

大矢透《韻鏡考》國語譯 > 【目次】

【更新進度】

380606/11//【韻鏡考】第七章//開始本文錄入。
380606/10//【韻鏡考】第六章//補完國語譯。
380605/21//【韻鏡考】第六章//開始國語譯。
380604/17//【韻鏡考】第六章//上傳日本語本文。
380604/13//【韻鏡考】第五章//補完國語譯。插入頁碼標記。
380603/21//【韻鏡考】第五章//開始國語譯。
380602/22//【韻鏡考】第五章//補完日本語本文。
380602/16//【韻鏡考】第五章//上傳寬永十八年本内轉第一開圖片。調整佈局。

【韻鏡考】第七章 字音の成立

【本文】

    第七章 字音の成立

【文字の創製】縱ひ文字國なる支那なりとも、未だ文字無かりし以前は、言語のみにて、意志を通じたりしなり。而して漸く人智進み、世務多端となるに隨ひ、之を記載する必要を生ずるに至り、始めて文字を製して、毎語に一字を當てられたるなり。是等製字上の巨細の推測は姑らく他日に讓り、こゝには唯、其の大要を撮記せんとす。

蓋し、未開時代に於いて、記載の必要の最も初に起こりしは人員物數にして、指呼する【數字】に隨ひて、物に附したる爪痕など、即て數字となり、物數を記せる傍に其の何物の數【象形】なるかを分たんが爲に、其の略形を畫き添へたるが、象形文字の起原となり、上下左右を指示する必要に迫られて、自然に指事文字の端緒を發したりしならん。而して【指事】是等象形、指事の單文は、一原語に一文を當れられ、其の原語の音のまゝに呼ばれたるが、即て其の字の音とはなれるなり。爾後人智の進むにつれ、有形無形に拘らず、所有る言語の記載を要するに至り、一語の義に應じて、二文以上の其の音を捨て、其の【會意】意を取りて、之に當つること起る。即ち會意字にして、是亦呼ぶに原語の音を以てす。以上象形、指事、會意の三類は、毎語、一字を當て、毎字、孤立の狀態に製作せらるゝが故に、殆ど他に聯絡無くして記憶せざる可からず。而も象形、指事の如き、一見直ちに

 

【韻鏡考】第六章 音圖製作の目的及び用法

【本文】

    第六章 音圖製作の目的及び用法

前章に述べたるが如く、切韻編集に先ちて、既に音圖の存在したりとするときは、そ【隋代切韻を編集せし因由】は何等の目的に向ひて製出せられしにか。今之を知らんと欲せば、先づ隋代に於いて、切韻の編集せられたる因由より尋ねざる可らず。乃ち廣韻の首に舉げたる切韻の序に、

昔開皇初、有儀同劉臻等八人、同詣法言門­宿。夜永酒闌、論及音韻。以古今聲調、既自有別、諸家取捨、亦復不同。(中略)呂静韻集、夏侯該韻略、陽休之韻略、李季節音譜、杜臺卿韻略等各有乖互、江東取韻、與河北復殊。因論南北是非、古今通塞、欲更捃選精切、除削疎緩、蕭トガ多所決定。魏著作謂法言曰、向來論難疑處悉盡、何不一レ記之、我輩數人定、則定矣。法言即燭下、握筆略記綱紀、博問英辯、殆得精華。(下略)

とあり。文中八人とは、此の序の前に於いて、廣韻勒成進上の際、切韻以來、撰󠄀集箋注、増【隋に於ける國定韻書調查委員會委員】修等に關れる人名を具申せるが中なる、儀同三司劉臻、外史顔之推、著作郎魏淵、武陽太守盧思道、散騎常侍李若、國子博士蕭該、蜀王諮議參軍辛德源、吏部侍郎薛道衡とあるを指せるにて、是等は切韻、即ち國定韻書の調查委員會の委員たりしなり。而して、各員互ひに自家識るところの音を執りて甲論乙駁、容易に決し難きに至りて、南方の耆宿顔之推と北方の老儒蕭該とが批判によりて、始めて定まれるところお多かり21/22し狀態、宛ら現りに睹るが如し。

かくの如く、隋に於いて韻書國定の必要起こりし所以は天下一統の結果として、南北異音の人士、交〃一朝廷に集れるより、文藝上は言ふに及ばず、何れの方面に於いても、その不便甚しかりければなり。而も一字に對して、其の音を規定するに方り、立案者たるものは、豫め先づ各員共通の音圖を要すべき理なるが故に、立案と同時に、一の音圖を提出せしや疑ふ可らず。是前章に舉げたるが如く、種々なる點に於いて、韻鏡等の音圖と切韻との間に自ら合期一致せるところを示せる所以なり。而して切韻既に成り、之を天下に行ふに至り、其の音は、右の如く新たに規定せるものなるが故に、其の反切の上下字を讀むに、各自の方音を以てするときは、尚正音を發すること能はざるものあるを如何にせん。是に於いて、右の切韻規定の爲に用ゐし、此の音圖を取りて、切韻中の音頭文字を記入するときは、假令、反切を解せざるものといへども、容易に正音を發することを得べし。是隋唐に於いて切韻、唐韻と同時に是等音圖の必要なりし所以なり。

隋唐に於ける音圖の必要は、右の如くなりしが、其の統一せる字音は、唐を通じて實行すること三百年、天下其の音に習熟すること既に久しく、宋に至りては、時音に對して其の反切を解せざるはどのものもなく、之が爲に、反切を借らずして、直ちに知るべき音圖の用、全く絶えたりしに、宋初翰林學士丁度等が著手して未だ成らざり22/23し集韻、司馬光等に至りて新たに成り、天下に頒たれし頃より、漢魏以來種々にして一定せざる經史の反切を取りて、悉く宋代の一音に歸せしむる必要を生じ、即ち隋唐以來、世に傳はれる音圖に基き、集韻其の他の宋代當時の音頭を配記し、先づ切韻類例、七音略、韻鏡の如き音圖、相尋いで出來、終に是等の音圖は、專ら種々の反切を解するに用ゐられしのみらなず、古今を貫き、南北を通じて字音を律すべき龜鑑なりと思惟するに至れり。

【音圖用途の三轉】以上述ぶるところによりて見れば、音圖の用は、初は、韻書規定の標準として作られ、次には、韻書の反切の音を示すと同時に、之を解し得ざるものゝ爲に、直ちに口處、清濁等によりて正音を發することを得べからしむる用に供せられ、終に、經史上、異音の反切を、一時代の音に歸するように供せらるゝに至れるものにして、前後三轉を爲せるものなり。而してこは、文字國たる支那に在りては、自然の必要に應じたる當然必至の變遷と謂ふべきなり、殊に、最後の一轉に在りては最も適切にして、若し是無らんには、經史の讀法と現時の呼法の乖離甚しく、所謂、言文一致ならざるが爲に、讀法教授の上に大なる不便を感ず可きなり。されば、宋人は、此の音圖に頼るにはらずば、經史の反切は解すること能はざるものと爲し、以て其の精微を嘆じ、妙用を讃して措かざる所なり。而も畢竟は隋唐の原圖の音頭文字に替ふるに、宋代の時音に成れる歸字を以てし、經史上疑はしき反切あるときは、取りて之に擬し、合はざるとき23/24は、類隔其の他の音例に問ひ、强いて宋代現時の口舌上の音に牽合する手段に外ならざるなり。之を古音保存の方より觀るときは、頗る穏當ならざるものに似たりといへども、苟も文義の識得を重んずる上より考ふれば、是亦事宜に對して最も適切【支那と我が國とは音圖の用を異にす】なる處置と謂はざる可らず。さりながら此は唯支那の如く、字音は即ち言語なる國に於いての事のみ、本來既に固有の國語ありて、之に交ふるに主として齊梁の吴音、隋唐の漢音を以てし、且つ其の字母の如き、相近きは既に呼びて一音と爲せる我が【韻鏡は宋時のものにして之に據りて音を得るも我が國の漢呉音には適すべからず】國に適用するに、其の處有る可らず。假令、適用し得たりとすとも、そは我が國の漢音にはあらで、宋代の時音に歸したるに過ぎざれば、畢竟、徒事徒勞たるを免れず。

抑も我が國の漢音は、既に云ふが如く、隋唐中原の正音の五經博士、入唐僧等を介して入り來れるものなりしといへども、我が國人の耳と口とによりて、自然に國音と融和せるものなるが、假名書きせしより次第に變化を來し、遂に今日の如き呼法と【漢字音假名遣を規定するに音圖の必要】はなれるなり。而して字音を假名もて記すところの所謂る字音假名遣の最も正しき標準を定めんとするには、必ず隋唐當時の原音を明らかにして、最も之に近き形を以て規定せざる可からず。而して其の隋唐當時の原音を明らかにせんには、隋唐の音頭を規定する標準と爲せる音圖を以て基礎としたる七音略、若くは韻鏡に頼る以外、他に道無かる可し。又、我が國には、周漢以來六朝の間、隨時入り來れる字音は、地名に、人名に、事物の名稱に、何くれとなく用ゐられたるが、後に隋唐の漢音に混じ、初は真假24/25名となり、後には片假名、平假名となりて今に遺れり。されば、是等の字音の來源を知らんとするには、必ず周漢以來、歷代を逐ひ、變遷せる字音を審かにせざる可らず。爾【韻鏡は宋音なるが故に漢音を正す用に適せず】かするに至らば、其の歷代の異音を、宋元の音に歸する爲にせる反切の門法を以て、漢魏お甲音の、晋宋の乙音に變じ、晋宋の乙音の、齊梁の丙音に遷りて、轉々化々せる理由を論じ、次第を説くの名目に應用することを得べきなり。

右の如く、一たび其の用法を變ずるときは、前に云ふが如く、其のまゝに我が國に移【韻鏡の轉用】しては、無用の長物たるを免れざる宋代の音圖、幷びに反切の門法も、亦優に我が國、音韻學上、重要なる地位を占むるものとなれり、是に於いて、著者は假名通考著手の初より、絶えず是等音圖の構成は勿論、之に關する種々なる名目につきて、從來其の理由の覺束無かりしもの、其の意義の定かならざりしものゝ考索を怠らざりしが、近時稍ゝ緒に著けるを覺ゆ。乃ち之が敍述に著手せんとするに當り、豫め漢字音の成立を明かにする必要を感ずるがまゝに、之を略言すること次章の如し。

 【國語譯】

第六章 音圖製作之目的及用法

如前章所述,韻圖早於《切韻》編集之先已存在。則其出於何種之目的而製出耶。今欲曉之,則不可不先明隋代編集切韻之因由。乃《廣韻》卷首所舉〈切韻序〉所言:

昔開皇初,有儀同劉等八人,同詣法言門宿。夜永酒闌,論及音韻。以古今聲調,既自有別,諸家取捨,亦復不同。(中略)呂静《韻集》、夏侯該《韻略》、陽休之《韻略》、李季節《音譜》、杜臺卿《韻略》等各有乖互,江東取韻,與河北復殊。因論南北是非,古今通塞,欲更捃選精切,除削疎緩,蕭(該)(之推)多所決定。魏著作(彦淵)謂法言曰,向來論難,疑處悉盡,何爲不隨口記之。我輩數人,定則定矣。法言即燭下、握筆略記綱紀。博問英辯、殆得精華。(下略)

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國立國會圖書館《大宋重修廣韻》五卷一葉裏至三葉表

文中八人,即此序前中所呈《廣韻》勒成進上時,《切韻》以來撰集、箋註、增修等相關人員名單中所及八人:儀同三司劉臻、外史顔之推、著作郎魏淵、武陽太守盧思道、散騎常侍李若、國子博士蕭該、蜀王諮議參軍辛德源、吏部侍郎薛道衡。由此以爲,此等諸位即是國定韻書調查委員會之委員也。然各員各執其方音,莫衷一是,難以易決,多由南方之耆宿顔之推及北方之大儒蕭該批判定奪,而如今所覩之形。

一如前述,有隋一代,韻書國定之必要,起於天下統一,而南北異音之濟濟多士,集於一朝,文藝上自不必言,而於諸方面皆甚爲不便。而定一字之音,立者理當事先預備各員共通之韻圖,是字音之立,同時亦成一韻圖,此無疑也。是故如前章所言,《韻鏡》等韻圖與《切韻》自然於諸多方面合同一致也。而《切韻》既成,至於行之天下,如前所述,因其字音爲重新訂立,故其以各自之方音,讀其反切上下字,尚不能發其正音則如何。於是取前述《切韻》爲規定字音所用之韻圖,寫入《切韻》中之小韻,則雖不解反切,亦可容易得其正音也。是故於隋唐之世,覽唐韻之時,此等韻圖爲必要者也。

隋唐時韻圖之必要,已如前述。夫統一之字音,實行於有唐一代之三百年,天下熟習其音既久,至於趙宋,則其反切於時音莫不能解,是故原爲不借反切亦能直曉其音所作之韻圖之用不復矣。而自宋初翰林學士丁度等所始作而未成、司馬光等始付梓之《集韻》集成,頒於天下,則有取漢魏以來種種未得定準之經史上之反切、悉皆歸於宋代之一音之必要。遂取隋唐以來行世之韻圖,以爲基準,配記《集韻》等宋代韻書之小韻,前述《切韻類例》、《七音略》、《韻鏡》之儕相繼問世,終於此等之韻圖,不僅專爲解種種反切之用,更有以爲將通貫古今南北之字音歸一之龜鑒者也。

【韻圖作用的三次轉折】如前所述,韻圖之用,初爲韻書規定字音之標準所作。次因韻書作反切之同時,爲使不解者可得而可逕曉其發音之部位與清濁、以發正音之用而作。終以經史上異音之反切,歸於一時代之音所作。前後凡此三變。而此可謂於彼漢字之國,應運而生的必然之變遷。其最後一次轉折可謂最爲適切,若無此變,則經史上之讀法與現實之口音大相徑庭,所謂言文不一致,而讀法之教授上亦當感其大爲不便。然則宋人不依此圖,則經史之反切不能解,亦不得歎其精微、讚其妙用也。然畢竟其替換原有隋唐韻圖之小韻文字,改之以宋代時音之歸字,遇其經史上有疑之反切,取之擬入圖中而不合之時,僅能歸罪於類隔或其他之例,強以宋代時音來附會。自古音保存之角度觀之,似非十分穩當之手段。但若僅以通曉文義上考量,則亦不可不謂最爲適切之處置。然此僅限於如中國一般字音即語言之方,吾國原來既有本邦之國語,其間又有以齊梁之吳音、隋唐之漢音,隨其字母將相近之音呼爲一音,則無有適用之所也。縱適用之,則無非以吾國之漢音歸於宋代之時音耳,不免徒勞而已矣。

蓋吾國之「漢音」,一如前述,雖介由隋唐中原正音之五經博士、入唐僧等而來,然經吾國人之口耳,與國音自然相融,又寫以假名,漸次變化而來,遂成今日之呼。【韻圖於規定漢字音假名遣之必要】然以假名記字音,即所謂字音假名遣,欲定其最正之標準,必明隋唐當時之原音,不可不以最近於原音之形規定之也。而欲明隋唐當時之原音,則僅能賴夫基於以隋唐小韻爲定準之韻圖而作之《七音略》或《韻鏡》,此外更無他法。又,自周漢以來六朝之間,時時而入吾國之字音,於吾國之地名、人名、物名上,多方取用,後又混入隋唐之漢音,初爲萬葉假名(真假名),後又爲片假名、平假名而遺於今。如是,則欲知此等字音之來源,必不可不審知周漢以來歷代隨變之字音也。【《韻鏡》爲宋音故於正漢音不適切】然則縱是以歸歷代之異音於宋元一音之反切門法,亦可論彼漢魏、晉宋、齊梁間字音輾轉變化之理由,應用於彼説次第之名目中也。

【《韻鏡》的轉用】若此,一變其用法,則如前所云,所謂照搬入吾國則不免爲無用長物之宋代韻圖、及其反切門法,亦於吾國音韻學上占重要之地位也。於是,著者自著手《假名通考》以來,就此等韻圖之構成、及於與之相關之種種名目,其從來之理有疑者、其意義無定説者,考案不怠絶也。近來始覺稍通其頭緒矣。然欲始就此敘述,感當先明漢字音之成立,故於下章略言之。

【韻鏡考】第五章 韻鏡の原型は夙に隋代に成れり

【本文】

    第五章 韻鏡の原型は夙に隋代に成れり

若夫、一篇の字書、或は韻書を編成せんとするに方り、一に唯、既成の樣式體裁を摸倣し、墨守するものにあらざる限り、文字音韻を蒐集して、之を適當に分類序列するに【韻鏡内外轉其の他の次第と切韻の二百六韻との一致】は、其の人と其の場合とによりて、必ず特異の思索考案に出づるものなることは言ふまでも無く、殊に新たに音韻の圖を構成組織するが如きは、一層の苦心を要すべきものと爲す。既に然りとせば。嘗みに韻鏡の構成に注意すべし。内外の分別、開合の對比、四聲等位の差異等、其の關係連絡、極めて錯綜紛糾せるにも拘らず、第一轉より第四十三轉に涉りて、内外十六攝目の區分を紊さず、二百六の韻頭を排列せるが如き、極めて次序整然たるは、創製の苦心惨憺たりし、當時の情況、推測するに餘りありといふべきなり。是れ、構圖上の排列次第、總べて皆、特殊の思索考案の結果に外なら17/18【唐寫唐韻】ざるに非ずや。こゝに近時、清國蔣斧といふが、刊行せる唐寫唐韻といふを得て披き【唐寫唐韻は即ち切韻なり】見るに、去聲の一部と入聲の全部なるが、其の跋に陸法言の、切韻の長孫訥言が初注の本なることを考證せり。實に毎音頭字下に、増加の數を注し、而も廣韻の首に舉げたる訥言が序に、改めたりと云へる字の、未だ改らざるにて、蔣氏の考證の適確なるを知るに足る可し。而して廣韻を取りて之に較べ見るときは、唐韻、廣韻、次を逐いて増加せる文字も大略分別せらるゝことなるが、今、此の切韻の韻頭、及び韻頭下の音頭の次第を韻鏡上の排列に較べ見れば、大體に於いて一致せる處多きに居るのみならず、第一轉より第十一轉までは、通江止の攝目の次第に準ひて、東冬鍾江支脂之微魚は、全く相一致するものあり。又入聲一屋下なる音韻字は、韻鏡上の等位に當つるに、二三四の諸等は錯綜したれど、一等の文字は先づ之を引舉したる後に於い【切韻屋韻下の音頭の次第と韻鏡第一轉入聲段との比較】て、始めて二三等の文字に及ぼすこと、此の屋韻下の音頭次第と、韻鏡第一轉入聲段とを對比すること左の如し

  初唐切韻入聲一屋頭韻*1[...](六禿他谷反四18/19七速;脣音清濁18/19舌音清;卅八蹙子六反四加一19/20卅九肭;喉音濁19/20喉音清濁)

此の如く、同一の屋韻に屬する文字に於いて、第一等と二三四の諸等とに判然分別せられ、且つ錯綜せる他等といへども其の反切の上下字の性質によりて、韻鏡の歸字と同一の列位に立つべく定められたるものは、是等は皆、切韻、當時の口舌上の音に具はれるに由るものともの見て有るべきにあらず。されば、前にいへる韻頭の次【音圖の切韻編集當時のものなるべき推測】第と等位の一致とを併せて考ふれば、切韻編集當時即ち隋代に於いて、一音圖の存在せしことを想はざるを得ず。殊に唐初に於いて、音韻縱横圖の存在せしことは、前章に於いて、既に證明せる所なり。これ有りとせば、其の音圖は、專ら、切韻編集の爲に、陸法言等が徒によりて創製せられたりしものと見て可なるが如し尚前章末に舉げたる韻書に伴へる清濁音、四聲韻、切韻圖等いづれも一巻なるより推測するときは、或は是等の中には、魏晋以來傳はれる音韻縱横圖もありけるより、陸氏等は之に準じて隋韻を定めたるものならん。但し右の韻書どもは、夙に佚して傳はらざる今日に在りては、陸氏の徒の創製せしものと見て有るべきなり。20/

 

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譯者所藏寬永十八年本《韻鏡》内轉第一開

 【國語譯】

第五章 《韻鏡》原形於隋代既已成之

若夫欲成一部字書或韻書,唯欲以不類既有之體、不囿既有之形,則當隨其人其事,於文字音韻之蒐集、及其分類排列,各出心裁,此不言自明。而創其音韻圖式之構成組織,尚費苦心。既知此,而視彼《韻鏡》之構成,内外之分別、開合之對立、四等之差異等,其關係聯絡、極其錯綜而複雜。而其亙四十三轉,内外十六攝目之區分不紊,二百六韻之排列井然,更爲慘淡經營之創製,當時之狀足可推知也。是其構圖之排列次第,其全體莫非特意之思索考案而成。近來清人蔣斧得唐寫本《唐韻》殘卷而覽之,中有去聲一部及入聲之全部,其跋言考證得此為陸法言《切韻》之長孫訥言初注本。

確實每小韻首字下注增字數,且《廣韻》前部所舉長孫訥言序中稱改之字未改,以此足知蔣氏考證之確也。*2且取《廣韻》與之對觀,則由《唐韻》而《廣韻》逐次所增之字大略可分。今覽此《切韻》之韻目,及韻目下小韻之次第,與《韻鏡》之相較,則不僅其整體排布多有一致,且其第一轉至第十一轉,即通江止攝的順序全然一致,皆爲東冬鍾江支脂之微魚。又入聲一屋下之小韻,與《韻鏡》二三四等相當者雖交錯排列,但先舉者皆爲一等韻,之後始及二三等字。【蔣斧本《切韻》屋韻下小韻次第與《韻鏡》第一轉入聲段之比較】此屋韻下的小韻順序與《韻鏡》第一轉入聲(屋)之部分對比如下。(見文末)

如此,同屬於屋韻之字,一等與二三四諸等判然分別,且雖爲錯綜之他等,亦可以反切上下字之性質推斷其《韻鏡》歸字,由此可知《切韻》所依非當時實際之讀音。【韻圖當與《切韻》編集同時之推測】如此,考前述韻目之次第與等位之一致,則或可得知《切韻》編輯當時,即隋代時已有一韻圖。尤於唐初,音韻縱横圖之存在已於前章得證。既有此,則可見其韻圖由陸法言之輩專爲《切韻》編集而創製。又如前章末所舉《見在書目》中與韻書同出之《清濁音》、《四聲韻》、《切韻圖》等皆爲一卷,由此推測其中或有魏晉以來所流傳之音韻縱横圖,而陸氏又準之定爲隋韻。然前列之韻書等,夙遭亡佚,今日不傳,視之以爲陸氏之輩所創製亦可也。

 

【切韻殘卷入聲一屋頭韻】

一 屋(烏谷反二)

二 獨(徒谷反十八加二)

三 穀(古鹿反六)

四 哭(空谷反三)

五 縠(胡谷□□加三)

六 禿(他谷反四)

七 速(桑谷反九加四)

八 豰(丁木反[ ])

九 祿(盧谷反廿三加五)

十 族(作木反三加一)

十一鏃(作木反二加一)

十二瘯(千木反三)

十三暴(告木反三)(廣韻蒲木反とあり。告、恐らく蒲の誤ならん。)

〔國語:《廣韻》作蒲木反。告恐爲蒲之誤。〕

十四朴(普木反五加三)

十五卜(博木反八加二)

十六木(莫木反六)

以上一等に列す〔以上列於一等〕

十七福(方六反十加一)

十八伏(房六反十七加六)

十九縮(所六反八加一)

二十六(力竹反十一)

廿一逐(直六反六)

廿二菊(居菊反十一加三)

廿三麴(駈菊反二)

廿四熟(殊六反五)

廿五俶(昌六反四加一)

廿六育(余六反十二加三)

廿七𩣽(渠竹反六加□)

廿八鼀(七宿反二)

廿九粥([ ]反四)

三十肉(如六反三)

卅一叔(式竹反□加一)

卅二蓄(許六反六加二也)

卅三竹(張六反五加一)

卅四珿(初六□□加二)

卅五縬(則六反一)

卅六蝮(芳福反五加二)

卅七郁(於六反十四加四)

卅八蹙(子六反四加一)

卅九肭(女六反四加一)

四十肅(息逐反十二加四)

四十一目(莫六反七加一)

四十二囿(于六反一)

四十三稸(田六反三加二)

以上二三等に列す〔以上列於二三等〕

【《韻鏡》屋韻】

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*1:因行數過多,不便閱覽,與附表一同置於譯文後。以下部分亦不譯。

*2:蔣斧〈唐寫本唐均記〉(《唐寫本唐均》、上海國粹學報館、一九〇八):「又按長孫訥言〈切均序〉云:『見炙从肉,莫究厥由。輒意形聲,固當從夕。及其晤矣,彼乃乖斯。』是《切均》舊本炙字从夕,今《廣均》炙字从肉,注云『《説文》曰:炮肉也。从肉在火上。』即是長孫氏改正之本也。而此本則正从夕,且注云『《説文》从肉』,則此本尚是長孫氏初注之本矣。」

【韻鏡考】第四章 韻鏡の原形の尋繹

【本文】

    第四章 韻鏡の原形の尋繹

【韻鏡以前の音圖】抑も韻鏡一類の音圖は南宋に於いて、張麟之が訂正刊行せし以前、既に數種有りし【楊中修切韻類例】ことは、司馬光と殆ど同時の楊中修に、切韻類例と云ふが有りて、之に四十四轉の音【孫覿が鴻慶集】圖ありしこと、同時の孫覿が鴻慶居士集といふものに、舉げたる其の序に見えたる【楊倏が韻譜以外の音圖】ところなり。また韻鏡の嘉泰三年の序に、楊倏が淳煕間に撰󠄀びたりし韻譜の序文に【切韻心鑑】を得て、舊書を以て校訂を加へ刊行せし由をいひ、又鄭樵が七音序略(この序略【七音序略】恐くは轉倒せしならん。そは鄭樵の通志中七音略ありこの要語は其の序中の一節なればなり)を引ける中にも、初めに七音韻鑑を得て壹唱三歎すとめり、然らば、鄭樵の七音略は、七音韻鑑を取捨増損せしものにてはあらざるか、而して、韻鏡は、指微韻鑑といひしよしなれば、其の類本なりしや更に疑ふと【宋時音圖の比較】ころ無し。今、七音略と韻鏡とを取り、彼是比較して見るに、共に四十三轉にして、唯下半末に至りて少しく其次第を異にしたる點無きあらざれど、曾攝の二轉を巻13/14【音圖の歸字】尾に置きたるは同一なり。而も尚少しく異なるところあり。そは唯歸字に在りて、七音略の方は、大體集韻の音頭を取り、韻鏡の方は、略〃廣韻の音頭を基礎として、集韻其の他の宋時の韻書によりて、増加せるものゝ如し。

【珙韻】韻鏡の序に

【沙門神珙】余年二十、始得字音、往昔相傳、類(オオムネ)洪韻、釋子之所撰也。有沙門神珙、號音韻、嘗著切韻圖、載玉篇卷末、竊意レバ是書作ラル於僧、世俗訛呼珙爲洪爾〔。〕然又無所據、自是研究、今五十載、竟莫於誰

とあれば、南宋の時に在りて、既に音圖の成れる由來の、明かならざりしこと知るべきなり。而して、張氏の口氣より察すれば、略〃之を僧神珙に歸せんとするものゝ如し。【五音九弄圖】然りといへども、神珙がことの、初めて見えたるは、玉篇の末に附記せる五音九弄圖【元和韻譜】の自序に外ならず。韻鏡の序中、唐又有睢陽甯公、南陽釋處忠。此二公者、又撰元和韻譜、などあるによりて考ふれば、唐末か否らずば五代間の僧なりしならん。而も其の音圖を見るに、圖式にして音韻縱横の圖に非るより推すときは、是必ず七音韻略、韻鏡等の原圖の繁なるを厭ひ、簡略に知らしめんが爲に、新たに工夫せるものたるや疑ふところ無きなり。若し果してこれを以て原圖なりとするときは、是等縱横圖の創製【唐初既に音韻縱横圖の存在せる跟蹟】は是より後ならざる可からず。然れども、音韻縱横式の圖は、夙に唐初に存在せし跟蹟の認むめきもの有るを如何にせん。そは、藤原佐世の日本國見在書目錄に其の目見え、鄭樵が通志、切韻指掌の董南一が序に其の名14/15見えて、支那にても夙に佚して傳はらざる唐武玄之といふが韻詮(見在書目に十巻、通志に十五巻と見ゆ。)の悉曇藏に引かれたるに、

韻詮明義例云、凡爲韻之例四也。一則四聲定位、平上去入之例是也。二則正紐以相證、令上下自明。人濁平濁上濁去濁入之例是也。三則傍通以取韻〔、〕使聲不一レ誤、春清平清平濁平濁平之例是也。四ニハ則雖其聲而无其字〔、〕則闕而不書、辰濁平濁上濁去之例是也。

【韻詮の音圖の推定】とありて、其の四聲ある例に、人濁平濁上濁去濁入を舉げたるは、其の音圖の形式は、

 

 

 

 

舌齒音

清濁

の如くなりしは、韻鏡の第十七轉の

舌齒音

清濁

の如くなると同樣なるにて之を推すべく、又傍通の例に、春清平清平濁平濁平を舉げたるは、韻鏡の第十七轉、平、齒音三等及び舌齒音に、(表三行目)15/16(表四行目)

齒音

次清

𦿒(蓁)

舌齒音

清濁

の如く、排列せられたるに近似せるにて、之を知るべし。而して是等數例の、全く韻鏡同式の音圖より取り來れるものなることは、右の義例に、四則雖其聲而无其字則闕而不書といひて、辰蜃昚の三字を舉げたるにて、自然其の音圖の、

齒音

此の如くなることの知らるゝに、其が上に韻鏡の

齒音

とあると、殆ど同樣なるにて、其の音圖の韻鏡と同式なること益〃疑ふところなきなり。

【武玄之年代の推定】右の如く、韻詮の音圖の、音韻縱横圖なること既に確然たり。而して武氏の本傳明かならずと雖も、見在書目を見るに、高宗實錄六十巻(武玄之作)とあるより推すときは、恐らくは、武氏は高宗に親しく仕へたる人なるべし。然らすば漫りに實錄等の著作あ16/17【隋時既に切韻圖ありし推測】る可からず。武氏にして高宗時代の人ならしめば、唐初既に韻鏡同式の音圖ありし【見在書目中音韻に關するもの】ことは更に疑ふべからず。而して武氏が此の圖の、自己の創作なるまじきことは、かゝる音圖は、隋の世、夙に知られしもの有りしが如く、見在書目中、集字廿巻(冷泉院)の次に四聲韻音一巻、四聲指揮一巻(劉善經)の次に清濁音一巻、韻集五巻の次に、切韻圖一巻とあるにて、自然の要求より、一種の音圖の字書類、切韻類に伴ひたりしは、寧ろ當然のことゝ謂ふべし。

 【國語譯】

第四章 《韻鏡》原形尋繹

 

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寬永十八年本《韻鏡》二葉表至三葉表

【《韻鏡》以前之韻圖】蓋《韻鏡》一類的韻圖,在南宋張麟之修訂刊行以前,已有數種。【楊中修《切韻類例》】【孫覿《鴻慶居士集》】孫覿《鴻慶居士集》中所舉〈切韻類例序〉稱,與司馬光大約同時之楊中修所作之《切韻類例》有四十四轉的韻圖,由此可知之也。

*1 又《韻鏡》嘉泰三年(一二〇三、張麟之)序*2稱,其得楊倏(侯倓)淳熙間所撰《韻譜》,【楊倏《韻譜》以外之韻圖】【《切韻心鑑》】書中自序言「因以(《切韻心鑑》)舊書,手加校定刊之」。【《七音序略》】又引鄭樵〈七音序略〉(此處「序略」或顛倒。夫鄭樵《通志》中有〈七音略〉,此處之要言爲其序中一節)*3「初得七音韻鑑一唱三嘆」。然則,鄭樵《七音略》應取捨增刪《七音韻鑑》而成。由《韻鏡》言及《指微韻鑑》觀之,*4則其爲類本毋庸置疑也。【宋時韻圖的比較】今取《七音略》與《韻鏡》,比較二者,可見二者皆有四十三轉。唯至於下半末部其次第稍異,然其曾攝二轉放在卷尾,同也。此外尚有稍異之處。【韻圖的歸字】唯在歸字,《七音略》大多取《集韻》之小韻,《韻鏡》則大略或以《廣韻》小韻爲基礎,參照《集韻》等宋代當時的韻書增加之。

【珙韻】【沙門神珙】《韻鏡》序(圖一、二葉表):

余年二十,始得此學字音,往昔相傳,類曰洪韻,釋子之所撰也。有沙門神珙,號知音韻,嘗著切韻圖,載玉篇卷末,竊意是書作於僧,世俗訛呼珙爲洪爾。然又無所據,自是研究,今五十載,竟莫知原於誰。

由是,則可知在南宋之時,韻圖之由來已不得而知。然察張氏之口氣,似乎大約歸於僧神珙所作。【〈四聲五音九弄圖〉】雖然,有關神珙之記載,初僅見《玉篇》末所附的〈四聲五音九弄圖〉自序。*5該篇自序中*6有言「唐又有睢陽寗公、南陽釋處忠。此二公者、又撰《元和韻譜》」,考此,則神珙當爲唐末抑或五代間之僧人。觀神珙之韻圖,其圖式非音韻縱横之圖。由此可推知,此必是《七音韻略》《韻鏡》等厭原圖之繁蕪,欲以一目瞭然,而創意功夫,此無疑也。若果以神珙圖爲韻圖之原形,則不可不以此等縱横圖之創製爲此之後。【唐初既有音韻縱横圖存在之痕跡】如此,則何以言解釋早在唐初既有音韻縱横圖存在之痕跡乎。夫武玄之《韻詮》,於中國早已失傳。今存目於藤原佐世《日本國在見書目錄》*7 ,鄭樵《通志》(卷六四)、《切韻指南》董南一序*8。《悉曇藏》中有引《韻詮》曰*9

韻詮明義例云,凡爲韻之例四也。一則四聲有定位,平上去入之例是也。二則正紐以相證,令上下自明。人濁平濁上濁去濁入之例是也。三則傍通以取韻,使聲不誤,春清平清平濁平濁平之例是也。四則雖有其聲而无其字,則闕而不書,辰濁平濁上濁去之例是也。

由此,其舉人濁平濁上濁去濁入爲「四聲」之例,可以推之韻圖形式應當如下:

 

 

 

 

舌齒音

清濁

當與如下《韻鏡》第十七轉同樣。

舌齒音

清濁

又舉春清平清平濁平濁平爲「傍通」之例。亦可知當如《韻鏡》第十七轉、平、齒音三等與舌齒音之排列近似。

齒音

次清

𦿒

舌齒音

清濁

又此等數例,取其與《韻鏡》全同之韻圖。此由前述義例中「四則雖有其聲而无其字,則闕而不書」,舉辰蜃昚三字爲例,則可知其韻圖自然如下。

齒音

此與《韻鏡》以下一部大約全同。

齒音

其韻圖與《韻鏡》全同更無疑所也。

【武玄之年代的推定】如前,《韻詮》的韻圖爲音韻縱横圖確然矣。然雖武氏於本傳未明,觀《見在書目》,有「高宗實錄六十卷(武玄之作)」*10。由是推之,武氏或爲親近高宗之官吏。非然則斷無可有實錄等之作也。武氏既爲高宗時人,則唐初已有與《韻鏡》同式之韻圖更無可疑也。【《見在書目》中與音韻相關之目】然武氏此圖,約莫並非自己創作。則此種韻圖,或早在隋時既已有之。《見在書目》中錄有《集字》廿卷(冷泉院)、《四聲韻音》一卷、《四聲指歸》一卷(劉善經)、《清濁音》一卷、《韻集》五卷、《切韻圖》一巻等。此種韻圖可謂正是伴隨字書類、切韻類的産生,因應其自然的要求而形成的。

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《見在書目》「十 小學類」中音韻相關書目。原文另起一行則使用「次に」作爲標記。

 

*1:孫覿《鴻慶居士集》切韻類例序(四庫本、卷三十、葉九表裏):「今楊公又即其書科別戶,分著為十條,為圖四十四,推四聲子母相生之法,正五方言語不合之訛。清濁輕重,形聲開合,梵學興而有華竺之殊,吴音用而有南北之辨,解名釋象,纖悉備具,離為上下篇,名曰《切韻類例》。」 

參見董同龢〈切韻指掌圖中幾個問題〉「連結」、 羅常培〈通知七音略研究〉「連結」

*2:圖爲譯者所藏寬永十八年本《韻鏡》二葉表至三葉表。又、可參見京大附圖藏永祿本《韻鏡》。京都大學提供網路查讀。「連結」

*3:「七音略」於後世往往或作爲獨立文本討論、或獨立出版。故以下「七音略」一概使用雙書名號(《》)。又,維基文庫提供文字版「連結」。築波大學(新日本古典籍總<綜>合資料庫)提供數位版查讀「連結」

*4:一葉表:「既得友人授指微韻鏡一篇,且教以大略。」

*5:宮内廳書陵部蔵有宋本《玉篇》。宮内廳提供網路查讀。「連結」(第三冊p82)

*6:原文誤作「《韻鏡》序中」,此處徑改

*7:國立國會圖書館提供網路查讀(コマ13左)「連結」

*8:四庫本、卷一五葉(原序一葉)表。中國哲學書電子化計劃提供四庫本網路查讀「連結」

*9:京都大學附屬圖書館藏寬文十二年版《悉曇藏》。引文見卷二、十八葉表裏。京都大學提供網路查讀(引文image75左)「連結」。又大矢引文承《悉曇藏》之標號法,使用圓點標記聲調。圓點有一點二點之別,《悉曇藏》原文未明言。此處徑改以漢字標音,原標記見連結。

*10:同上,コマ18左。下圖コマ10。又、圖中唯「集字廿卷」下作「冷泉院」、別處皆作「冷然院」。其緣由譯者未知。

【韻鏡考】第三章 韻鏡の歸字の時代の觀察

【本文】

第三章 韻鏡の歸字の時代の觀察

凡そ、今の世に在りて、隋唐時代の字音の全象を略〃模索し得べきは、廣韻の外無く、宋9/10【廣韻の唐韻との關係】代の字音の審に知らるゝものは、集韻に如くは無し。廣韻は、宋初に於いて、陳彭年等が唐韻を校正増補せるものにして、其の増加せるものは毎部末に在りしものゝ如く、少しく注意せんには大略其の分解を判別するを得べし。されば其の増加字中の音韻の重複のものをだに除かば其の音種は、略〃唐韻と一致せりと見て可なるべし。【集韻】集韻は、廣韻の、宋代の韻書としては、十分ならざるより、祥符中に翰林学士丁度等に命じて編集せしめたるを、治平中、司馬光によりて完成せるなり。

【韻鏡の歸字の宋代の時音なる確證】廣韻、集韻、同じく宋代のものなれども、一は唐代の音を基礎とし、一は專ら宋代の時音なるの別あり。是に於いて韻鏡(宋板に最近しといふ享祿の覆刻なる元祿版)を取りて之を一檢するに、第一【廣韻集韻雄字反切の相違】轉、喉音、濁、平聲、三等に雄字あり。雄字は、漢音イユウにして廣韻羽弓切なれば、當に次行なる清濁即ち喩母の下に在るべきなり。然るにかく喉音の濁即ちガ行の音なる匣母の下に在るは、何故にか、從來の韻鏡家には、之を以て匣喩往來の例を示せるなりとの説あれど、今、集韻一東の部を檢するに雄字は、胡弓切即ち匣母の音なり。然ら【廣韻集韻脣音開合の異同】ば、韻鏡に於いて、匣母下に在ると一致せるなり。韻鏡の歸字中、かくの如く廣韻と異にして、宋音なる集韻と一致せるは、自ら是等歸字の、正に宋代時音たるを證する一端には非るか。第四轉、脣音、三等に陂縻の二字を列せり。廣韻に徵するに、陂は彼爲切、縻は靡爲切にして、反切の下字よりすれば、合轉なるを知る。然らば、當に合轉なる第五轉に入るべきに、かく開轉なる第四轉に在るは何故にか。仍て集韻を檢すれば、陂10/11は班糜切、縻は忙皮切にして並びに開轉の音なり。然らば是等の歸字も亦同じく、唐代の時音には非るが如し。第二轉、舌音、清、去聲、一等の湩字、第十轉、牙音、濁、去聲、三等の鞼字等皆廣韻に見當らず。乃ち集韻を檢するに、二宋の部に湩、冬宋切、八未の部に鞼、巨畏切あり。是等は皆集韻ならずば、他の宋代當時の韻書いによりて、其の等位に充てたるものなるを知るべし。又韻鏡には脣音四等を以て重脣音の定位と爲す。然るに廣韻に據れば、平聲の飊は甫遙切、上聲の褾は方小切にして、反切の上字は皆輕脣音に屬せり。是韻鏡第四等の重脣音の定位たるに合はず。若し韻鏡歸字の廣韻に從へるものならんには、須らく第三等に列すべくして、其の然らざるは、集韻に是等の文字の反切の上字は、各重脣音なる卑毗邊弭等を用ゐたればなり。此の如く前節の數例と合せて、僅かに其の一隅を舉げたるのみなれど、韻鏡の歸字は、全く宋代の時音によりて記入せられたるを證するに足るべし。

廣韻は既に云へるが如く、宋初に於いて唐韻に増加せしにて、音頭を取りて音圖に【清陳澧切韻考】配當せば、大體隋唐時代の音韻を概知すべきなり。但し清陳澧が切韻考に徐鉉等が説文を校するに、以唐韻音切といへるに、豐の音に敷戎切とあるを以て、廣韻の諸本皆敷空切とあるは改むべしといへるに就き、今我が國古書に引ける唐韻豐字【類聚名義抄豐字の反切】の反切を尋ね見るに、唐韻に據りたるものと思はるゝ類聚名義抄に豐字、及び廣韻に之と同音と爲せる澧㠦の諸字、共に敷隆切とし、又同じく唐韻に據れる東宮切韻11/12の、倭漢年號字抄(前田家藏本寫)豐字下に引かれたるも、敷隆反とあり。然らば、我が國に傳れる唐韻は敷隆反にして、徐鉉説文の反切下字戎とは頭音を異にすれども、共に三等なるは全く同韻なれば、唐韻の豐字の三等韻なりしは更に疑ふべからず。然るに廣韻に一等の下字なる敷空切なるは、或は宋音に改めたるにもやと思へど、集韻には敷弓切とありて、其の下字一等なれば、全く唐韻と同音同韻なり。唐韻、集韻共に同音【廣韻の反切の誤】同韻なりとすれば、陳澧の説の如く、廣韻の誤と斷ずるの外無きなり。是にて觀れば、見せざる以上は、唐韻の完本、世に顯はるゝまでは、廣韻に據りて滿足すべきなり。

【韻鏡を以て宋代のものなりと爲せる上にて從來諸家の説の異なる所以を評す】前段の如く一たび其の歸字にして、既に宋代の時音なることの證せらるゝ以上は、縱令、韻鏡に如何なる幽旨妙義あるにもせよ、其の直接の効用は、僅かに宋一代に限られて、更に異代他方に及ぼす力なきものと爲さゞる可からずかく言はゞ從來之を革命的感想を以て之を逆へしむる恐あるも、亦止むを得ざるところなり。さりながら、韻鏡家といへども、元來、韻鏡を以て全甌完璧として遇したるものゝみにもあらず。文雄が磨光の如き、歸字を増減し、開合を改めたるところ少からず。太田全齋が漢呉音圖の如き、歸字は勿論、題目をだへ變ぜしものあり。然れども獨、三十六字母、二百六韻、等位の如き、依然其の位地を動かさゞるは、こは、本來、韻鏡に於いて、最も貴重12/13なる者は此の部分の構造に存すればなり。されば著者がかくの如く、此の歸字の用を以て宋代に限れりと爲して之を斥けんとすともさばかり、深く世の韻鏡家の非難を被る恐なきのみならず、著者が次章に於いて試みんとす其の構圖の原型は何れの時代より、さる形を成せるにかの考證に對しては、必ず多少の興味あらんと信ずるなり。

 【國語譯】

第三章 《韻鏡》歸字時代之觀察

凡今存世文獻中,可以略探隋唐字音之全體者,無外乎《廣韻》;可以審知宋代字音者,無若《集韻》。【《廣韻》與《唐韻》之關係】宋初陳彭年校訂增補《唐韻》而成《廣韻》。其增加之部分大約皆在每一部的末尾,稍加注意便可明判其大略。然則雖其增字中有音韻重複者,除其重複之類則大體與《唐韻》一致,其貌可窺也。【《集韻》】而《廣韻》作爲宋一代之韻書,不爲充足也,故大中祥符年間*1,由翰林學士丁度奉命編寫。治平年間(三年,一〇六六),由司馬光完成。

【《韻鏡》歸字爲宋代時音之確證】雖《廣韻》、《集韻》同爲宋代之物,然二者有別,一以唐代之音爲基礎,一專宋代時音。【《廣韻》、《集韻》「雄」字反切之異】依此,取《韻鏡》(元祿版,爲與宋版最近的享祿本之翻刻*2)檢之,則第一轉、喉音、濁、平聲、三等有「雄」字。「雄」,漢音ijū(tɕyŋ),《廣韻》作羽弓切,應當在次行清濁、即喻母之下。然實在喉音濁、即匣母(相當於ガ行[g~ŋ])下。此何故耶?從來之韻鏡家皆以爲匣喻往來之例説之,今檢《集韻》一東部,「雄」字胡弓切、即匣母也。然則與《韻鏡》中居於匣母下一致也。【《廣韻》、《集韻》脣音開合的異同】《韻鏡》歸字中,如此與《廣韻》爲異、與宋音之《集韻》一同者,自非此等歸字正是宋代時音證之一端歟。第四轉、脣音、三等列陂縻二字。徵《廣韻》,則陂爲彼爲切、縻爲靡爲切。由反切下字可知當歸入合口之轉。然則本當歸爲合口第五轉,實則居於開口第四轉,何故耶。由之一檢《集韻》可知、陂爲班糜切、縻爲忙皮切,咸屬開口之轉。然則此等之歸字亦同之,似非唐代之時音也。第二轉、舌音、清、去聲、一等之「湩」(國語音ㄉㄨㄥ去聲)字,第十轉、牙音、濁、去聲、三等「鞼」(國語音ㄍㄨㄟ去聲)等皆不見《廣韻》。遂檢《集韻》,則二宋有湩、冬宋切,八未有鞼、巨畏切。此等皆若非《集韻》,即依他宋代當時之韻書,以填其等位,故可知也。又《韻鏡》以脣音四等位爲重唇。然《廣韻》「飊」平聲、甫遙切,「褾」上聲、方小切(國語音ㄅㄧㄠ上聲)。反切上字皆屬輕脣音,不合於《韻鏡》第四等本應歸重脣音之地位。若《韻鏡》歸字遵於《廣韻》須列於第三等,其非然者,蓋以《集韻》此等數字,皆用之以重脣音卑、毗、邊、弭之等爲反切上字。如此則與前揭數例相契。此雖僅舉其一隅,而足證《韻鏡》歸字,悉依宋代之時音而記之也。

一如前述,《廣韻》爲宋初增加《唐韻》而成者。取其小韻填入韻圖,則大約可概曉隋唐時代之音韻。但清陳澧《切韻考》稱「徐鉉等校《説文》云以唐韻音切爲定」(北大本、卷一、四葉表)、故徐鉉以「豐」爲敷戎切,《廣韻》諸本皆作「敷空切」是當該。*3【《類聚名義抄》「豐」字之反切】今就之查見我國古書所引《唐韻》「豐」字反切。《類聚名義抄》一般以爲依據《唐韻》。其中「豐」字,以及《廣韻》中與之同音的「灃」「㠦」等字,皆作敷隆切。*4又同據《唐韻》之《東宮切韻》「倭漢年號字抄」(前田家藏本寫)「豐」字下所引亦爲敷隆反。然則,傳於吾國之《唐韻》作敷隆反,與徐鉉《説文》反切下字戎,雖聲母不同,其二者皆三等而完全同韻,《唐韻》「豐」字歸三等韻更無疑也。然則《廣韻》下字一等之敷空切,或以爲據宋音所改者,實檢《集韻》作敷弓切,其下字爲一等,與《唐韻》同音同韻。【《廣韻》反切之誤】《唐韻》、《集韻》皆為同音同韻,則如陳澧所言,是斷爲《廣韻》之誤也。由是觀之,則若非得覽原本,《唐韻》之完本顯於世之前,且當以據《廣韻》亦足也。

【以《韻鏡》爲宋代之音而評從來諸家説之所以異】如前一段所言,既已證其歸字,循宋代之時音,則縱令《韻鏡》有如何之幽旨妙義,其直接之作用亦僅限於有宋一代,遑論涉及異代他方也。如此之言,則於從來之説爲革命的,然亦不免有以愚爲叛逆之虞。然而,則即使爲韻鏡家,此前亦非僅以《韻鏡》爲十全十美。如文雄《磨光韻鏡》,亦有不少增減歸字,更改開合之處。如太田全齋《漢吳音圖》,勿論歸字,甚至易改題名。雖然,唯其三十六字母、二百六韻、等位之類,依然不動其地位。然《韻鏡》中至關重要者,本當存於此等部分構造之中。故而若著者前所言之、以此書歸字之用限於宋代之論説,自有斥之者,亦恐深被當世韻鏡家之非難也。而著者於次章,將試論其構圖的原型起於何時,並就其形成作一考證,相信諸位必多少懷有些興趣了。

*1:應爲仁宗景祐四年(一〇三七),大中祥符爲《廣韻》頒行時年號。

*2:譯者未查所謂元祿本爲何本。

*3:《切韻考》(北大本、卷四、三葉表裏)一東「豐」下云:「《廣韻》諸本皆敷空切,今從徐鉉《説文音》及徐鍇《説文篆韻譜》。《玉篇》芳馮切、《集韻》敷馮切。馮戎韻同,類可證戎字是也。」

*4:國立國會圖書館提供網路查讀。「連結」

【韻鏡考】第二章 韻鏡の我が國に入れる以來の狀況

【本文】

第二章 韻鏡の我が國に入れる以來の狀況

韻鏡は、何の世、誰の作なるか未詳かならず。南宋の張麟之といふが、少年の頃、之を得て字音を研究し、晩年に之を訂正したるを、紹興三十一年(我が二條天皇應保元年。)初めて刊行し、慶元三年(我が後鳥羽天皇建久八年。)再刊しけるが我が國に傳へたる版本に、嘉泰三年(我が土御門天皇建仁三年。)の【我が國に韻鏡の行はれたる年代】序あるを見れば、以後又刊行せしなるべし。さて、そを我が國に傳へたるは、いつの頃【韻鑑古義標注】なりけん、河野通清が韻鑑古義標注に引きたる舊記に、

皇和人王八十九世、龜山院文永之間、南都轉經院律師、始韻鏡於唐本庫焉。然不知有甚益。又同時明了房信範ト云ヒノ悉曇、掛錫於南京極樂院、閱此書而即加和點。自是韻鏡流行本邦也。

【我が國に韻鏡の發見せられたる由來】と見えたり。岡本保孝の韻鏡攷に之を引きて、此の舊記の出典考ふばしといひたる【韻鏡看拔集】が、東京帝國大學國語研究室の韻鏡看拔集の巻首に、

南部轉經院律師、此韻鏡久雖ドモ所持スト讀之間、上總前司公氏(アツラ)ヘ之處ンハ悉曇シトテ叶、終之。爰小河嫡弟明了房聖人トテ之。悉曇奥義メテ日域无雙タリ之初點者也。7/8

と見えたり。此の看拔集は、寬永十一天(甲戌)三月廿一日午刻書寫了の奥書ありて、古義【韻鏡賴勢傳】標注に先つこと百餘年、而して書中に、以上小(コ)(カハ)ノ御説也といひ、明了房記曰といひ、賴勢傳云などいへるありて、小河の御説は、台密宗小川流の忠快、若くは阿娑嚩抄の作者なる承澄を指せるならん。賴勢傳とて引ける空炎二聲氣入ヨリヨリ一韵也【韵鏡字相傳口授】は、大槻博士所藏、應永三十年賴勢御本を以て書寫云々の奥書ある韵鏡字相傳口授に、其聲韵入于鼻聲與息倶亦從鼻出(中略)梵音空點也亦入聲炎點也などあると、同意異文なるは、筆記の人を異にせるが故にて、同傳なること明かなり。是等にて推せば、此の看拔集の書本は、大略、同時若くは、之に近き頃のものにして、即ち此の傳説は、その【信範本韻鏡】一流相承の事實なりしならん。そは同研究室所藏、彌勒二年丁卯書寫の奥書ある韻鏡に、本云建長四年二月十二日書寫了(明了房信範)とあるにて、建長と文永との違はあれど、僅かに十二年の差のみなれば、事實の對證確然たりと謂ふべし。既に然らば、韻鏡の第三版の成れるより四五十年の後に、我が國に行はれしものなり。爾來之を傳寫せるもの、研究せるものゝ絶えざりけん。北朝貞治元年五十七歲にて寂せる杲寶の【創學抄】創學抄の輕重淸濁分別事とある條に、四聲輕重淸濁等廣韻、指微韻鏡等其字類と【反音抄】あるなど、韻鏡を引きたるところ少からざるより初めて、續群書類從に收めたる反音抄は、韻鏡によりて音和、類隔、憑切、又は往來どもの諸門法を釋きたるもの四種見えたる。其の初の奥書に、應永十五年歲戊子仲春時以師傳之趣大概記之畢。又此8/9中少々交私料簡有之旁深可憚他見努々小川末流桑門照珍(俗廿八法十四)とあり。前に略舉せる韻鏡字相傳の應永三十年二月九日於敦賀氣比之社賴勢ノ御本以テ此書寫申也爲無上𦬇*1也、求法桑門實慶とあり。又醍醐三寶院には、嘉吉元年權律師俊慶寫の奥書ある一本を藏せるところを見るにつけても、享禄元年に刊行せらるゝまでに、此の書に對せる幾多の研究者の連續せるさまを見るべし。是よりして以後、校訂し解釋して、屋下に屋を架するもの、其數殆ど算舉するに暇あらず。

【韻鏡初めて加點せられたる以來の研究狀態】以上の如く、此の書の、初めて點を加へられて以來、大凡六百年其の間、研究の繼承せられたるものは何事にか。時に本居宣長、義門法師等の如き、之を以て我が國の字音假名遣に應用し、僅かに實用に接近せしめたるもの無きにあらずといへども、多くは唯、宋儒の爲しゝ所に跟隨し、經史の反切を解するに、徒らに煩瑣にる門法を墨守して得々たるものにあらずば、得るところあるも施すに處無き音韻の空想に耽りて其の年を窮むるものゝみ。是蓋し其の構圖門法どもの名目頗る幽旨妙理あるが如くなるに眩されて、本來韻鏡の何物たるを解する能はざりしに因るなるべし、而して其か何物なるかは、先づ歸字について尋ね見ん。*2

 【國語譯】

第二章 《韻鏡》進入吾國以來之狀況*3

《韻鏡》的成書年代、作者皆未詳。南宋時人張麟之,年少時得之並研究其字音,晚年加之校訂,紹興三十一年(一一六一,即吾國平安後期二條天皇應保元年)初刊,慶元三年(一一九七,即吾國鐮倉時代後鳥羽天皇建久八年)再刊。而傳與我國的版本中,可見嘉泰三年(一二〇三,即吾國土御門天皇建仁三年)之序,大約此後當又再次刊行。【《韻鏡》行於吾國之年代】則《韻鏡》傳至我國是何時耶?河野通清(江戶時僧人)*4《韻鑑古義標注》(享保十一年(一七二六)付梓)中引用之舊記曰:

 

【《韻鑑古義標注》】皇和人王八十九世,龜山院文永(一二六四至七五)之間,南都(奈良一帶,與「南京」同義)轉經院律師,始得韻鏡於唐本庫焉。然不辨知有甚益。又同時有明了房信範(一二二三至約九六,鐮倉時代真言宗僧人)*5能達悉曇,掛錫於南京極樂院(今元興寺),閱此書而即加和點。自是韻鏡流行本邦也。

【我國《韻鏡》發現之由來】岡本保孝《韻鏡攷》引本文,認爲此篇舊記的出典,或爲東京帝國大學國語研究室所藏《韻鏡看拔集》卷首之一段:

【《韻鏡看拔集》】南部轉經院律師,此韻鏡久雖所持不能讀之間,上總前司公氏屬令點之處非悉曇師難叶,終返之。爰小河嫡弟明了房聖人有之。悉曇奥義究日域无雙人,屬之初加點者也。

此《看拔集》奥書稱「寬永十一天(甲戌)*6(一六三四)三月廿一日午刻書寫了」,早於《古義標注》百餘年。而書中有「以上小河御説也」、「明了房記曰」、「賴勢傳云」等記錄。小河御説應當是指台密宗小川流之忠快(一一六二至一二二七),或爲《阿娑縛抄》的作者承澄(一二〇五至八二)。「賴勢傳」的引文有「空炎二同聲氣入鼻出鼻故爲一韵也」。大槻文彦博士所藏中有《韵鏡字相傳口授》一書,奥書稱「以應永三十年賴勢御本書寫」云云,其中錄有「其聲韵入于鼻,聲與息倶亦從鼻出(中略)梵音空點也亦入聲炎點也」*7,因抄寫者爲異之故而生同意異文也,故可知同爲一傳也。於此等推之,則此《看拔集》之書原是大略與之同時或不遠也。即這些傳説爲一脈相承之事實敘述。同研究所藏《韻鏡》,奥書稱彌勒二年丁卯(私年號,即室町時代永正四年(一五〇七))書寫,其中以明了房信範書寫了爲建長四年(一二五二)二月十二日。雖有建長與文永之差,但前後不過十二年,應當可以稱之對證確然矣。既然,則《韻鏡》第三版成書四五十年後,行於吾國也。爾來傳鈔之、研究之,絡繹不絶也。【《創學抄》】北朝貞治元年(一三六二)五十七歲而圓寂的杲寶《創學抄》*8中「輕重清濁分別事」一條下有言「四聲輕重淸濁等廣韻,指微韻鏡等出其字類」等,引用《韻鏡》之處不鮮。【《反音抄》】由此爲始,《續群書類從》中所收《反音抄》*9中,依照《韻鏡》解釋了音和、類隔、憑切及往來四個門法。

其中第一個奥書曰「應永十五年歲〔次〕戊子(一五〇八),仲春時〔正〕以師傳之趣大概記之畢。又此中少々交私,料簡有之。旁深可憚他見努々。小川末流桑門照珍(俗廿八法十四)」。前所提及之《韻鏡字相傳》記曰「應永三十年二月九日、於敦賀氣比之社、賴勢之御本、以此書寫申也。爲無上菩薩也、求法桑門實慶」。又見有醍醐三寶院藏書中寫有「嘉吉元年(一四四一)權律師俊慶寫」奥書者。可見洎享祿元年(一五二八)版《韻鏡》刊行之時,關於此書之研究已多,研究者絡繹不絶。自是以還,或校定或解釋,遞相模斅,猶屋下架屋,其數不暇盡舉也。

【《韻鏡》初爲吾國學者所受以來之研究狀態】一如前述,此書初次加訓點(爲吾國學者所接受)以來,大約六百年矣。其間,繼承其研究者爲何事耶?雖不可言竟無用於接近實用者,如本居宣長、義門法師等,以之應用於吾國字之音訓、假名之用,然多者唯如隨宋儒,以之解經史之反切,或者徒墨守煩瑣之諸門法而自得,或者有所得然耽於空想音韻,若空中樓閣,以窮其年耳。蓋當由是而其構圖門法之名目頗類幽旨妙理、眩視惑聽,其《韻鏡》原爲何物而不得其解。然欲知其爲何物,實當先由探其歸字始也。

 

*1:「ササ」、即「菩薩」之略字也。

*2:參看龜田次郎〈新出の韻鏡舊註〉(大谷學報11-2、1930.5)

*3:參考岡井慎吾《日本漢字學史》第五四章〈韻鏡の發見〉。大阪大學提供網路查讀。http://www.let.osaka-u.ac.jp/~okajima/ingaku/okai54.htm

參考大谷大學圖書館編《韻鏡諸本目錄》。大谷大學提供網路查讀。「連結」

*4:此河野通清非伊豫國大名,應爲江戶時期一音韻學者。參照堺市圖書館之介紹。 

https://trc-adeac.trc.co.jp/WJ11E0/WJJS06U/2714005100/2714005100100070/ht003680

*5:富山市立圖書館提供數位典籍《明了房五十音秘記/漢音梵唄譜》。 

https://www.library.toyama.toyama.jp/wo/rare_book/index?rare_book_list_flg=1&page=30&lines=10&value_id=4245。關於明了院之五十音圖研究,參見竹田鐵仙〈五十音圖の研究―音圖の成立に就いて―〉。駒澤大學提供網絡查讀。http://repo.komazawa-u.ac.jp/opac/repository/all/18194/KJ00005089181.pdf

*6:譯者未查東大本《看拔集》,據國立國會圖書館所藏版末葉所附簽,原本當確作「寬永十一天」而非「年」。國會圖書館提供網路查讀,以下爲末葉連結。 

https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2546115?tocOpened=1

*7:業師克列巴諾夫氏稱今印度人之炎點(ḥ)讀如濁音。

*8:日本古典籍數據庫存八筆資料。「連結」

築波大學藏延文四年(一三五九)《悉曇字記創學鈔》提供數位版。 

https://kotenseki.nijl.ac.jp/biblio/100334550/viewer/1

*9:宫内廳圖書寮文庫提供數位版《反音抄》。 (譯文據編號〇〇〇〇一四四〇寫真右側補字。)

https://shoryobu.kunaicho.go.jp/Toshoryo/Detail/1000168440678