以出齋 | Itshoh Tse

禮以行之 孫以出之 信以成之

【韻鏡考】第四章 韻鏡の原形の尋繹

【本文】

    第四章 韻鏡の原形の尋繹

【韻鏡以前の音圖】抑も韻鏡一類の音圖は南宋に於いて、張麟之が訂正刊行せし以前、既に數種有りし【楊中修切韻類例】ことは、司馬光と殆ど同時の楊中修に、切韻類例と云ふが有りて、之に四十四轉の音【孫覿が鴻慶集】圖ありしこと、同時の孫覿が鴻慶居士集といふものに、舉げたる其の序に見えたる【楊倏が韻譜以外の音圖】ところなり。また韻鏡の嘉泰三年の序に、楊倏が淳煕間に撰󠄀びたりし韻譜の序文に【切韻心鑑】を得て、舊書を以て校訂を加へ刊行せし由をいひ、又鄭樵が七音序略(この序略【七音序略】恐くは轉倒せしならん。そは鄭樵の通志中七音略ありこの要語は其の序中の一節なればなり)を引ける中にも、初めに七音韻鑑を得て壹唱三歎すとめり、然らば、鄭樵の七音略は、七音韻鑑を取捨増損せしものにてはあらざるか、而して、韻鏡は、指微韻鑑といひしよしなれば、其の類本なりしや更に疑ふと【宋時音圖の比較】ころ無し。今、七音略と韻鏡とを取り、彼是比較して見るに、共に四十三轉にして、唯下半末に至りて少しく其次第を異にしたる點無きあらざれど、曾攝の二轉を巻13/14【音圖の歸字】尾に置きたるは同一なり。而も尚少しく異なるところあり。そは唯歸字に在りて、七音略の方は、大體集韻の音頭を取り、韻鏡の方は、略〃廣韻の音頭を基礎として、集韻其の他の宋時の韻書によりて、増加せるものゝ如し。

【珙韻】韻鏡の序に

【沙門神珙】余年二十、始得字音、往昔相傳、類(オオムネ)洪韻、釋子之所撰也。有沙門神珙、號音韻、嘗著切韻圖、載玉篇卷末、竊意レバ是書作ラル於僧、世俗訛呼珙爲洪爾〔。〕然又無所據、自是研究、今五十載、竟莫於誰

とあれば、南宋の時に在りて、既に音圖の成れる由來の、明かならざりしこと知るべきなり。而して、張氏の口氣より察すれば、略〃之を僧神珙に歸せんとするものゝ如し。【五音九弄圖】然りといへども、神珙がことの、初めて見えたるは、玉篇の末に附記せる五音九弄圖【元和韻譜】の自序に外ならず。韻鏡の序中、唐又有睢陽甯公、南陽釋處忠。此二公者、又撰元和韻譜、などあるによりて考ふれば、唐末か否らずば五代間の僧なりしならん。而も其の音圖を見るに、圖式にして音韻縱横の圖に非るより推すときは、是必ず七音韻略、韻鏡等の原圖の繁なるを厭ひ、簡略に知らしめんが爲に、新たに工夫せるものたるや疑ふところ無きなり。若し果してこれを以て原圖なりとするときは、是等縱横圖の創製【唐初既に音韻縱横圖の存在せる跟蹟】は是より後ならざる可からず。然れども、音韻縱横式の圖は、夙に唐初に存在せし跟蹟の認むめきもの有るを如何にせん。そは、藤原佐世の日本國見在書目錄に其の目見え、鄭樵が通志、切韻指掌の董南一が序に其の名14/15見えて、支那にても夙に佚して傳はらざる唐武玄之といふが韻詮(見在書目に十巻、通志に十五巻と見ゆ。)の悉曇藏に引かれたるに、

韻詮明義例云、凡爲韻之例四也。一則四聲定位、平上去入之例是也。二則正紐以相證、令上下自明。人濁平濁上濁去濁入之例是也。三則傍通以取韻〔、〕使聲不一レ誤、春清平清平濁平濁平之例是也。四ニハ則雖其聲而无其字〔、〕則闕而不書、辰濁平濁上濁去之例是也。

【韻詮の音圖の推定】とありて、其の四聲ある例に、人濁平濁上濁去濁入を舉げたるは、其の音圖の形式は、

 

 

 

 

舌齒音

清濁

の如くなりしは、韻鏡の第十七轉の

舌齒音

清濁

の如くなると同樣なるにて之を推すべく、又傍通の例に、春清平清平濁平濁平を舉げたるは、韻鏡の第十七轉、平、齒音三等及び舌齒音に、(表三行目)15/16(表四行目)

齒音

次清

𦿒(蓁)

舌齒音

清濁

の如く、排列せられたるに近似せるにて、之を知るべし。而して是等數例の、全く韻鏡同式の音圖より取り來れるものなることは、右の義例に、四則雖其聲而无其字則闕而不書といひて、辰蜃昚の三字を舉げたるにて、自然其の音圖の、

齒音

此の如くなることの知らるゝに、其が上に韻鏡の

齒音

とあると、殆ど同樣なるにて、其の音圖の韻鏡と同式なること益〃疑ふところなきなり。

【武玄之年代の推定】右の如く、韻詮の音圖の、音韻縱横圖なること既に確然たり。而して武氏の本傳明かならずと雖も、見在書目を見るに、高宗實錄六十巻(武玄之作)とあるより推すときは、恐らくは、武氏は高宗に親しく仕へたる人なるべし。然らすば漫りに實錄等の著作あ16/17【隋時既に切韻圖ありし推測】る可からず。武氏にして高宗時代の人ならしめば、唐初既に韻鏡同式の音圖ありし【見在書目中音韻に關するもの】ことは更に疑ふべからず。而して武氏が此の圖の、自己の創作なるまじきことは、かゝる音圖は、隋の世、夙に知られしもの有りしが如く、見在書目中、集字廿巻(冷泉院)の次に四聲韻音一巻、四聲指揮一巻(劉善經)の次に清濁音一巻、韻集五巻の次に、切韻圖一巻とあるにて、自然の要求より、一種の音圖の字書類、切韻類に伴ひたりしは、寧ろ當然のことゝ謂ふべし。

 【國語譯】

第四章 《韻鏡》原形尋繹

 

f:id:kakinuma1208:20210707203949j:plain
f:id:kakinuma1208:20210707204131j:plain
f:id:kakinuma1208:20210707204134j:plain
寬永十八年本《韻鏡》二葉表至三葉表

【《韻鏡》以前之韻圖】蓋《韻鏡》一類的韻圖,在南宋張麟之修訂刊行以前,已有數種。【楊中修《切韻類例》】【孫覿《鴻慶居士集》】孫覿《鴻慶居士集》中所舉〈切韻類例序〉稱,與司馬光大約同時之楊中修所作之《切韻類例》有四十四轉的韻圖,由此可知之也。

*1 又《韻鏡》嘉泰三年(一二〇三、張麟之)序*2稱,其得楊倏(侯倓)淳熙間所撰《韻譜》,【楊倏《韻譜》以外之韻圖】【《切韻心鑑》】書中自序言「因以(《切韻心鑑》)舊書,手加校定刊之」。【《七音序略》】又引鄭樵〈七音序略〉(此處「序略」或顛倒。夫鄭樵《通志》中有〈七音略〉,此處之要言爲其序中一節)*3「初得七音韻鑑一唱三嘆」。然則,鄭樵《七音略》應取捨增刪《七音韻鑑》而成。由《韻鏡》言及《指微韻鑑》觀之,*4則其爲類本毋庸置疑也。【宋時韻圖的比較】今取《七音略》與《韻鏡》,比較二者,可見二者皆有四十三轉。唯至於下半末部其次第稍異,然其曾攝二轉放在卷尾,同也。此外尚有稍異之處。【韻圖的歸字】唯在歸字,《七音略》大多取《集韻》之小韻,《韻鏡》則大略或以《廣韻》小韻爲基礎,參照《集韻》等宋代當時的韻書增加之。

【珙韻】【沙門神珙】《韻鏡》序(圖一、二葉表):

余年二十,始得此學字音,往昔相傳,類曰洪韻,釋子之所撰也。有沙門神珙,號知音韻,嘗著切韻圖,載玉篇卷末,竊意是書作於僧,世俗訛呼珙爲洪爾。然又無所據,自是研究,今五十載,竟莫知原於誰。

由是,則可知在南宋之時,韻圖之由來已不得而知。然察張氏之口氣,似乎大約歸於僧神珙所作。【〈四聲五音九弄圖〉】雖然,有關神珙之記載,初僅見《玉篇》末所附的〈四聲五音九弄圖〉自序。*5該篇自序中*6有言「唐又有睢陽寗公、南陽釋處忠。此二公者、又撰《元和韻譜》」,考此,則神珙當爲唐末抑或五代間之僧人。觀神珙之韻圖,其圖式非音韻縱横之圖。由此可推知,此必是《七音韻略》《韻鏡》等厭原圖之繁蕪,欲以一目瞭然,而創意功夫,此無疑也。若果以神珙圖爲韻圖之原形,則不可不以此等縱横圖之創製爲此之後。【唐初既有音韻縱横圖存在之痕跡】如此,則何以言解釋早在唐初既有音韻縱横圖存在之痕跡乎。夫武玄之《韻詮》,於中國早已失傳。今存目於藤原佐世《日本國在見書目錄》*7 ,鄭樵《通志》(卷六四)、《切韻指南》董南一序*8。《悉曇藏》中有引《韻詮》曰*9

韻詮明義例云,凡爲韻之例四也。一則四聲有定位,平上去入之例是也。二則正紐以相證,令上下自明。人濁平濁上濁去濁入之例是也。三則傍通以取韻,使聲不誤,春清平清平濁平濁平之例是也。四則雖有其聲而无其字,則闕而不書,辰濁平濁上濁去之例是也。

由此,其舉人濁平濁上濁去濁入爲「四聲」之例,可以推之韻圖形式應當如下:

 

 

 

 

舌齒音

清濁

當與如下《韻鏡》第十七轉同樣。

舌齒音

清濁

又舉春清平清平濁平濁平爲「傍通」之例。亦可知當如《韻鏡》第十七轉、平、齒音三等與舌齒音之排列近似。

齒音

次清

𦿒

舌齒音

清濁

又此等數例,取其與《韻鏡》全同之韻圖。此由前述義例中「四則雖有其聲而无其字,則闕而不書」,舉辰蜃昚三字爲例,則可知其韻圖自然如下。

齒音

此與《韻鏡》以下一部大約全同。

齒音

其韻圖與《韻鏡》全同更無疑所也。

【武玄之年代的推定】如前,《韻詮》的韻圖爲音韻縱横圖確然矣。然雖武氏於本傳未明,觀《見在書目》,有「高宗實錄六十卷(武玄之作)」*10。由是推之,武氏或爲親近高宗之官吏。非然則斷無可有實錄等之作也。武氏既爲高宗時人,則唐初已有與《韻鏡》同式之韻圖更無可疑也。【《見在書目》中與音韻相關之目】然武氏此圖,約莫並非自己創作。則此種韻圖,或早在隋時既已有之。《見在書目》中錄有《集字》廿卷(冷泉院)、《四聲韻音》一卷、《四聲指歸》一卷(劉善經)、《清濁音》一卷、《韻集》五卷、《切韻圖》一巻等。此種韻圖可謂正是伴隨字書類、切韻類的産生,因應其自然的要求而形成的。

f:id:kakinuma1208:20210709211956p:plain

《見在書目》「十 小學類」中音韻相關書目。原文另起一行則使用「次に」作爲標記。

 

*1:孫覿《鴻慶居士集》切韻類例序(四庫本、卷三十、葉九表裏):「今楊公又即其書科別戶,分著為十條,為圖四十四,推四聲子母相生之法,正五方言語不合之訛。清濁輕重,形聲開合,梵學興而有華竺之殊,吴音用而有南北之辨,解名釋象,纖悉備具,離為上下篇,名曰《切韻類例》。」 

參見董同龢〈切韻指掌圖中幾個問題〉「連結」、 羅常培〈通知七音略研究〉「連結」

*2:圖爲譯者所藏寬永十八年本《韻鏡》二葉表至三葉表。又、可參見京大附圖藏永祿本《韻鏡》。京都大學提供網路查讀。「連結」

*3:「七音略」於後世往往或作爲獨立文本討論、或獨立出版。故以下「七音略」一概使用雙書名號(《》)。又,維基文庫提供文字版「連結」。築波大學(新日本古典籍總<綜>合資料庫)提供數位版查讀「連結」

*4:一葉表:「既得友人授指微韻鏡一篇,且教以大略。」

*5:宮内廳書陵部蔵有宋本《玉篇》。宮内廳提供網路查讀。「連結」(第三冊p82)

*6:原文誤作「《韻鏡》序中」,此處徑改

*7:國立國會圖書館提供網路查讀(コマ13左)「連結」

*8:四庫本、卷一五葉(原序一葉)表。中國哲學書電子化計劃提供四庫本網路查讀「連結」

*9:京都大學附屬圖書館藏寬文十二年版《悉曇藏》。引文見卷二、十八葉表裏。京都大學提供網路查讀(引文image75左)「連結」。又大矢引文承《悉曇藏》之標號法,使用圓點標記聲調。圓點有一點二點之別,《悉曇藏》原文未明言。此處徑改以漢字標音,原標記見連結。

*10:同上,コマ18左。下圖コマ10。又、圖中唯「集字廿卷」下作「冷泉院」、別處皆作「冷然院」。其緣由譯者未知。